第2話 早川ちとせはアニメが好き
放送部の早川ちとせは、小さい頃からアニメが好きだった。
しかし、彼女が愛している作品は同世代の女の子が憧れる少女漫画でも魔法少女ものでもなく、ド深夜に放送している「ガチ」のアニメである。
5歳くらいの頃だろうか。偶然観たグロいシーンやちょっとエッチがある作品の虜になったちとせは、母親にその魅力を熱弁した。
「あのね。この女の子。アンナちゃんっていうんだけど。この子は昔イジメにあってた過去があって心に深い闇を抱えているの。でも、普段は完璧にその闇を隠し切ってる。でも、学校で事件が起きるとその仮面が割れるんだ。我慢しなくなったアンナちゃんが格好いいんだ。ムキムキの男を一撃で倒したりするんだよ!? で、そのバトルシーンでたまに見えるパンツが可愛くもあって‥‥‥」
息つきをする暇も己に与えずに、ちとせは喋り続けた。
母は優しい表情で娘の話を最後まで聞いてくれた後、こう言った。
「面白いお話だね。でも、もっと楽しいアニメを観ようか」
その時の母は微笑していたが、ちとせを心配する感情を隠しきれていなかった。
まだ、幼いウチから過激な表現があるアニメにハマる娘の将来について案じているのだろうと、5歳のちとせは感じ取った。子供は大人が思うよりも空気を読むのが巧いのだ。
その頃から、ちとせは擬態を覚えた。
外では優等生だが、自分1人のフィールドになったらオタク全開にする。
昨今、アニメや漫画の文化的な評価は上がったが、自分のような「ガチ」はまだまだ受け入れられないという確信がちとせにはあった。
友人と大ヒット作品の話はするが、アニメの海を深く潜らないと存在すら知られない作品こそを、ちとせは愛していた。その作品について、他人と話した経験は無かった。
そのストレスからだろうか。
ちとせが声優の世界を志したのは。
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現役女子高生声優。
己がそう紹介されることには慣れなかったけど、使える武器は使うべきという事務所の判断は間違っていなかったと、ちとせは思っている。
だって、実際に人気が出たから。
もちろん、主役級の役をもらうことは無かったが、ネットラジオを任された時は天にも昇る気分だった。
地道に収録を重ねていき、声優マニアの間で多少の人気を獲得した。
公開収録でファンの人達が割れんばかりの声援を送ってくれた時は泣きそうになった。
「ちとせちゃーん!」
「緊張しなくて良いからね! 俺らがついてるよ!」
自分が好きなことをしていて応援されたのは人生初のことだった。
反対されることが目に見えていたので、親にも教師にも声優になったことを報告していなかったので、「声優」早川ちとせを認めてくれることがたまらないほど嬉しかったのだ。
しかし、楽しいこともあれば辛いこともあるのが、この世の中だ。
「いやー。ちとせちゃん。今日も良かったよ」
公開収録が終わり、ちとせのラジオ番組『早川ちとせの月曜日から失礼します』のプロデューサーである田崎慎二が握手を求めてきた。
本人には言えないが、ちとせは毎回のこの握手が嫌だった。一瞬で終わるなら良いのだが、たっぷり10秒以上手をサワサワとしてくるこのおじさんに、若干の苦手意識を持っていた。
(イヤイヤ。だめだよ。こんなに良くしてもらってる人にそんな失礼なことを‥‥‥)
ちとせは精一杯の笑顔を作って握り返す。
「いえいえ! 田崎さんを始めとしたスタッフの方々とファンの皆さんのおかげです! 私なんかまだまだ‥‥‥」
握手は続く。
「ちとせちゃんは本当にいい子だなぁ。あ! そうだ!『推しのVtuberが炎上した件について』っていうラノベ知ってる?」
「知ってます! 新刊も欠かさず読んでます!」
握手は続く。
「お! さすがだねぇ。あれが今度アニメ化するんだけど、主人公の妹役、俺がいい子いるってアッチに言っとこうか?」
「え? え?」
握手は続く。
「アッチの監督には貸しがあってね。妹役くらいならイケると思うんだよね。どう?」
「そ、それはもちろんありがたいです! はい」
握手は続く。
「よし! じゃあ、俺と遊ぼうか」
「‥‥‥はい?」
握手は続く。
「もう〜。分かるでしょ。駆け出しの声優が名前のある役をとるっていったら‥‥‥ねぇ」
ちとせは、田崎の言っていることが本気で理解できないほど無垢ではなかった。しかし、それは都市伝説に近いもので、自分に降りかかるとは予想したこともなかった。
(でも、自分みたいな目立った才能のない声優が役をもらうのには、それくらいするのが普通なのかも‥‥‥)
アニメに対する憧れと、自分の身体を売ることに揺れる。
喉元まで「はい」と返事しかけたその時。
「あ。我が校の生徒に手を出さないで頂けますか?」
学校でよく見かける、変わり者の校長が現れた。
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