第3話 化物
川井高校の校長になることが決まった時に、安藤が最初にした仕事は生徒や教員の名前と顔を覚えることだった。
文字通り、学校の長なのだ。学校に関わる人間のことを知っておいて損はない。彼の師匠も情報の大切さを事あるごとに語っていた。
しかし、名前はともかく、人の顔を覚えるのが大の苦手だ。勉強は嫌いではなかったが、歴史上の偉人の顔を覚えるのには苦労した。安藤の目には、織田信長も源頼朝も足利尊氏も同じおっさんにしか見えない。
その難題を、間違い探しをするような気合いで受験を乗り越えていた安藤だ。今更、500人程度を記憶するのに時間はかからなかった。
だから、放課後に教室に残っていた派手めの女子生徒達の会話に出てきた早川ちとせという人間の顔を即座に思い出すことができた。
また、自分の初陣である入学式の司会を務めてくれていた放送部の女生徒だということも、同時に思い出した。
「早川さんってさ〜。絶対パパ活とかやってるよね〜」
「ね! 絶対そう! 放課後になったらすぐに帰るし、金回りも良いもんね。おっさんって、ああいう清楚系好きだもん」
「うわー。おっさんと早川ちとせのセックスかー。想像しただけで吐きそう」
陰口だ。
安藤はそう理解したが、そう厳しく注意しようとは思わなかった。高校生にもなって他者を陥れる話をコソコソしている連中の根は変わらない。これからも、下らない自分を慰めながら生きて死んでいけば良い。
しかし、噂の中には真実が1部含まれる可能性があるのが気になった。
「君達」
「ゲ‥‥‥」
「アンドー‥‥‥」
突然現れた大人に面倒そうな顔をする2人。きっと、これから説教されると思っているのだろう。
しかし、彼女達は知らないのだ。
安藤昌哉は、どうでもいい人間相手に説教してやるほどのお人好しではないということを。
「その早川ちとせの噂話を、どこで入手したか教えてくれますか?」
\
所詮、噂は噂だった。
早川ちとせの親友の坂下花凛の話を聞くに、声優になる夢のために日々奔走しているというのが真実らしい。
「学校での許可無しにですか?」
「すみません。声優って許可が降りるか分からないから、私が秘密にしちゃえって言っちゃったんです」
ほんの少し茶色が入っている、ショートカットの花凛は、どこで覚えたのかと思うほどの綺麗な90度を誇る礼を安藤に披露した。
「うん。まあ、最終的には本人の判断だから坂下さんが謝ることじゃないですよ。でも‥‥‥」
唾を飲んでから、安藤は言う。
「向こうさんに挨拶に行きたいから、早川さんの仕事場を教えて下さい」
\
「未成年に過度なスキンシップをとると誤解されますよ」
「‥‥‥校長先生でしたか。これはご挨拶が遅れて失礼しました。私、早川さんと一緒にお仕事をさせて頂いている田崎という者です」
「知っています。ここに来るまでに下調べはしてきました」
花凛から、ちとせが所属している事務所や冠ラジオに携わっているスタッフの情報は調べてきた。
いや、調べてもらった。
殺し屋時代から、世話になっていた星田探偵事務所の所長とは珍しく気が合う。まだ若い女性だが、このまま探偵稼業を続けていけば、それなりの大物になると安藤は踏んでいる。
その事務所に依頼をしたら、半日もしないウチに碌でもない情報が出てくる出てくる。
枕営業は当たり前で、違法薬物にも精通しているらしい。
これはさすがに見過ごせないと、安藤が直接出向いたのだ。
「あー‥‥‥もしかして、オタク、怖い方?」
「何を仰います。私なんか学校という狭い世界で王様を気取っているつまらない男ですよ」
「それにしては、不穏な空気がしますよ‥‥‥。怖いなぁ。怖いから、強い人達に守ってもらおう」
ラジオブースに、屈強な身体をした3人の黒服が現れた。
「ここで良いんですか? 高そうな機材が壊れてしまいますよ」
「アンタを逃すリスクに比べたら軽いもんだよ」
いつの間にか敬語をやめている田崎。
この男、クズだが頭は悪くないらしい。まあ、闇の世界で数年巧いことやれたってことは、それなりの能力はあるのだろう。
「あ、安藤さん‥‥‥。私は良いから逃げて下さい」
哀れなほどに身を震わせているちとせだったか、発言はその真逆だった。
(いきなりヤクザ映画のような展開に巻き込まれながらも、他者を気遣うことができるのか‥‥‥生きづらいだろうな)
ちとせは間違いなく良い人間だ。でも、その分、田崎のような多少頭の回るクズに食い物にされやすい。
「はぁ‥‥‥」
安藤はため息をついた。
これで、ちとせが世の中を舐めているクソガキだったら、少し痛い目を見てもらおうと思っていたけど、良い奴だと知るとやりづらい。
「もう良いや。黒服くん達。私を10発ずつ殴りなさい」
「はぁ? 頭おかしいのかアンタ?」
田崎の感想は正しい。
安藤は頭がおかしい。
「はい。では1番ガタイのいい君からどうぞ」
プロレスラーと言われても違和感のない大男に、そう言い放つ頭のおかしい聖職者に、周囲は本格的に恐怖を覚え初めていた。
状況から見たら、完全に田崎側が有利なはずなのに、何故が追い詰められている不気味な感覚。
「う‥‥‥ウォラァぁァァァァ!!!」
得体の知れないこの生物を排除するために、大男は右腕を大きく振りかぶりボディーブローを入れた。
暴力特有の、鈍く不愉快な音が周囲に響き渡る。
この男も、暴力で金を稼いでいるプロだ。ペースが乱されたとはいえ、常人ならその場で失神するレベルの威力のパンチを繰り出せた。
「‥‥‥なんだ」
歳も60が近い老人は、つまらなそうに呟く。
「これくらいだったら、20発と言った方がハンデになりましたかねぇ」
「‥‥‥!」
逃げないと死ぬ。
大男は本能から悟る。
目の前の化物と自分との間には、途方もないほど深い実力差がある。もし、この化物が、うっかり手加減を忘れて殴りかかってきたら、間違いなく自分は死ぬ。
「‥‥‥ッッッ」
その巨体からは想像できないスピードで、大男は窓から逃げた。
「おい! 陣内!」
田崎が外を確認するが、大男‥‥‥陣内の姿はもう見えなくなっていた。
「クソ! あのヘタレが!! おいお前ら!!! この不気味な男を叩きのめせ!!!」
「え。あ‥‥‥」
「む、無理です‥‥‥」
その場から動けなくなっている黒服2人に、田崎は詰め寄る。
「無理じゃねーだろ!? 何のためにテメーらみたいな馬鹿に金払ってると思ってやがる!!?」
「案外、馬鹿は貴方かもしれませんよ?」
敵に完全に背中を向けた、哀れな田崎は耳元で囁かれる。
「彼らは、生物としての実力差を考慮した上で降伏したのです。貴方のように安全圏から見ているだけの唐変木よりはマシだ」
化物の表情は、田崎からは見れない。
「賢い彼らに免じて、1発入れるだけで終わりにしてあげましょう」
スッ。
軽いジャブ。
それこそ、高校生が戯れあいでするような、殺意のカケラもない攻撃。
背中からの殴打に、田崎は膝から崩れ落ちる。
「‥‥‥」
そのまま、ぴくりとも動かない。
「‥‥‥え? 死んだ?」
展開についていけていなかった早川ちとせは、やっとの思いで口を開いた。
「大丈夫。失神しただけですよ」
田崎達に向けていたのとは違う、柔らかい口調で返してくれたが、ちとせは恐怖心を拭い去ることができなかった。
しかし、人間とは不思議な生き物で恐怖とともに憧れにも似た感情も抱いていた。
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