第4話 世の中なんか、どうでもいい

「‥‥‥すみませんでした」


 ちとせは、黙々と隣を歩く安藤に掠れそうな声で謝罪をした。


 この謝罪には2つの意味がある。

 1つは、安藤昌哉の手を煩わせたことへの申し訳なさ。

 2つは、自分が楽になるため。


 大人に相談せずに行動した結果がこれだ。きっと、親に連絡がいってコッテリ絞られるだろう。その前に、この変な大人からの許しを得ることで、少しでも楽になりたかったのだ。


「これからは、声優とか夢みたいな世界じゃなくて、もっと社会の役に立つような仕事に就くために勉学を頑張ります」


 我ながら、完璧な反省だと思う。

 ちとせは教師のツボを抑えるのが昔から巧かった。読書感想文で賞をもらった時も、自分の意見ではなく大人が喜びそうな文章を書くことで評価を得ていた。

 しかし、そんな賢い女子高生の思惑通りに動いてくれないのが安藤昌哉という生物だ。


「世の中のためになんか、頑張らなくて良いです」


 聖職者からの口から出たとは思えない言葉に、ちとせは混乱する。

 今までの先生も、親も親戚もテレビやYouTubeの中の人も、「世の中の役に立つ人間が最も偉い」という旨を語っていた。

 それなのに、この男はそれをしなくて良いと語る。


「世の中‥‥‥何とも曖昧で無責任な言葉です。<社会との人間関係>と辞書には書いてありましたが、今日早川さんはその世の中に害を受けそうになりました」


 気怠そうに喋る安藤。この男は校長をしているくせに話すのを面倒に思っているのだ。


「もちろん、世の中の全てがああいうクズだらけというわけではありません。しかし、アレらにまで利益をもたらす必要は全くないんです」


 眠くなってきたのか、目を擦る安藤。

 ちとせを正面から見ることもなく、軽い調子で結論を述べる。


「世の中なんかより、自分のために生きてください」

「‥‥‥はい」


 早川ちとせは、本当の意味で初めて反省することができた。

 自分のためとは、同時に自分の周りの人も含まれる。

 もし、ちとせが田崎の毒牙にかかっていたら、親友の花凛まで悲しませてしまうところだった。

 自分の周囲も大切にできないで、何が世の中のためだ。

 とりあえず、明日は花凛に謝ろうと決めた。

\



「‥‥‥ただいま」


 安藤の暮らしているマンションは、高価でも安価でもない普通の物件だ。それは派手なものが苦手な性質のせいでもあるが、面倒な奴らに見つからないようにした結果でもある。


 手洗いとうがいを済ませてから真っ先に向かったのは、奥の畳の部屋。他はとうに汚部屋と化しているが、ここだけは清潔さを保っている。

 何故なら、恩人の部屋だからだ。

 中には、フカフカのベッドで横になっている老婦人がいる。安藤が入室してきたことに気づいたか、視線をこちらに向ける。


「おぅ。安藤、今日も仕事お疲れさん」

「いえ。大したことはしてないです。メシは食えましたか?」

「あぁ。美味かったぞ。いつの間にアタシの腕を超えやがって」


 シッシッシ。

 元気そうに笑う師匠。だけど、その笑顔は安藤を心配させまいという気遣いも混じっている。


(この人の本当の笑顔は、もっと美しいんだ)


 餓死寸前の安藤を拾ってくれた、純度100%の師匠の笑顔を思い出す。


「ほら。明日も仕事があるんだろう。こんな年寄り相手にするより、未来ある若者のサポートができるように休憩しときな」

「はい」


 本当は、もっと師匠と話していたかった安藤だったが、空気を読んで退室する。


 あの格好つけたがりの師匠のことだ。あまり、弱っている姿をみせたくないのだろう。

 師匠の望みを叶えるのが弟子の勤めだ。

 安藤は後ろ髪を引かれながら、己の夕食の準備にかかった。

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