第39話
現在でも日々人口が増え続けているマサラダの街では、建築ラッシュも相まって新たな店が続々と生まれている。
景気の後押しもあるおかげで、およそどこの店も繁盛しているといっていい。
その中でも食事処『薫風』は、格式の高い店だった。
この『薫風』は王都、ノニムの街に続いてマサラダにできた、いわゆる三号店であった。
既に引退していた、王都で本店を貴族向けのレストランとして周知させたやり手の先代店主が面白そうという理由で立ち上げたこの三号店は、現在マサラダの街で行われる公式・非公式問わぬ話し合いの場で重宝する料理店の一つになっていた。
そんな『薫風』でも最も上等とされているVIPルーム。
重厚な扉が閉められ周囲の全ての音を遮断するその部屋の中で一人座っているのは、他ならぬリンドバーグ子爵マゲルである。
彼はそわそわと身体を動かしながら、ぴっちりと閉じて音を漏らさぬ扉の方をじっと見つめている。
マゲルは一週間前と比べると明らかにやつれ、その頬をこけさせていた。
青白い顔で目の下に隈を作っているのは、キルゴア伯爵での一件の事後処理があまりにも面倒だったからに他ならない。
「おお早いな、私も少し早めに来たつもりだったのだが……」
ここ数日まともに眠れていない彼が背もたれに体重をかけ船をこぎ出そうかというタイミングで、扉がゆっくりと開いていく。
油が差されたドアは軋みを上げることもなく、ゆっくりと開く。
そこから入ってきた人物を前に、とろんとしていたマゲルの意識は一瞬で覚醒した。
「お久しぶりです、閣下。リンドバーグ子爵マゲルにございます」
「バスベルグ・フォン・ラインザッツだ。子爵とは今後も長い付き合いになりそうだからね……何卒よろしく頼むよ」
部屋の中に入ってきたのは、マゲルと比べると一回り近く若く見える好青年であった。
赤い髪を撫でつけるように右に流している彼は、髪と同じく真っ赤に燃える目を好奇心に揺らしている。
現ラインザッツ侯爵家の当主であり、ノニムの街を始めとして大規模な領地を抱えている、王国の中でも五指に入るほどの大貴族である。
両者が握手を交わす。
直接に顔を合わせたことこそないものの、両者は既に知らぬ関係ではない。
キルゴア伯爵を挟んではいてもさほど距離の離れた領地同士ということもあり、定期的にパーティーに参加するくらいの交流は持っていたからだ。
無論ラインザッツ家のパーティーにマゲルが参加する形で、だが。
「でも良かったのかい? 僕らが全部持っていってしまう形で。火事場泥棒を働いたみたいで申し訳ないんだけど」
「はい……今の子爵家には伯爵領を統治できるような余裕はありませんので」
キルゴア伯爵軍を潰したリンドバーグ子爵軍だが、彼らは戦い(あれを戦いと言っていいのかははなはだ疑問だが)を終えるとマサラダの街へ戻り、キルゴア伯爵領へ進軍することはなかった。
自分達に進軍の意志がないことを、マゲルは既にあの蹂躙劇を見せつけた映像水晶を使う形で侯爵へ表明している。
子爵の方にキルゴア伯爵領を統治しようなどというつもりは微塵もない。
彼からすれば今回の一件は正しく降りかかる火の粉を払っただけだっただ。
そもそも子爵家の人間に、領土を拡張しようなどというつもりは微塵もない。
ないのは野心だけではない。
今の自分達の領土より広い伯爵領を経営するようなノウハウも、それをなすために必要な人材も、現在の子爵領には何もかもが足りていない。
そのためリンドバーグ子爵は賠償金をある程度だけ取れば、それだけで矛を収めるつもりであった。
ちなみに現キルゴア伯爵となっている前伯爵の次男にも、同様の書状を申し込んでいる。
「これからは領地を接しているようなものだからね。積極的な関わりを持っていきたいところだよ」
そう口にするバスベルグの顔には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
何もせず引きこもった子爵家に対し、南を通じて伯爵領と領地を接しているラインザッツ侯爵は積極的に動いてみせた。
彼は伯爵本人とその嫡子を失った伯爵領に対し保護を申し入れており、統率力に欠ける伯爵側もそれを抑えきることができなかった。
そのため現在、ドルジを始めとした伯爵領にはラインザッツ侯爵軍が進駐を始めていた。
上級貴族である伯爵領そのものを潰すことは、国内の他の大貴族に目をつけられるため好ましくない。
恐らくこのままいけば、現状の伯爵が勇退し、侯爵家に従順な跡継ぎが選ばれることになるだろう。
伯爵領が侯爵の傀儡になるのは、既定路線と言える。
「もし希望するのであれば、正式にうちの寄り子になってもらっても大丈夫だよ。他の有象無象は僕が黙らせるし」
「それは……大変ありがたい申し出なのですが、今回ばかりは辞退させていただければと」
マゲルは下級貴族として、雲の上の存在であるバスベルグの顔色を窺う必要がある。
けれど彼はそれと同じくらい……いやそれ以上に、頭の上がらない存在がいる。
故に彼を危険に晒すような選択肢を選ぶわけにはいかない。
バスベルグの瞳がキラリと光った。
「それは……あのダンジョンマスターのためかい? ラテラント王国の上級貴族たる僕よりも、ダンジョンマスターのミツルとやらを優先すると?」
「そ、それは……その……」
正直に言えばその通りなのだが、子爵領はラインザッツ家からすれば吹けば飛ぶような弱小貴族だ。
上級貴族とダンジョンマスターという本来であればありえない組み合わせに完全に板挟みになったマゲルが目を白黒させていると……それを見たバスベルグが噴き出した。
「ぷっ、冗談だよ。そんな真面目に取らないでくれ」
どうやらからかわれていただけらしい。
ホッと息を吐くマゲルにやってきたお茶請けを進めながら、バスベルグもグラスを傾ける。
そして場の空気が和んでから、真剣な面持ちでマゲルを見つめた。
「マゲル、君は間違いなく今現在彼――ミツルと近い位置にいる存在だろう。そんな君からすると、彼のことはどんな風に見えている?」
「それは……」
マゲルはきょろきょろと、周囲に視線を巡らせる。
透明化ができる配下や影に隠れ潜むことができる魔物達がいることを知らぬバスベルグは、その様子に首を傾げていた。
「彼は善人であり、魔王であり……様々な側面を持つお人です。閣下、一つだけお教え致します。彼――ミツルさんに対しては誠実でいるべきです。我らは彼らの良き隣人であるべく努めるべきで、それ以上を求めるべきではありません」
「ふむ、なるほど……」
バスベルグも当然、伯爵軍に対して行われたあの蹂躙については目にしている。
ミツルという存在は善なのか悪なのか、王国にとっての災禍なのか福音なのか。
それを確かめるため、彼は周囲の反対を押し切り、単身でマサラダの街へとやってきたのだ。
「それなら子爵の目から見て、今回の聖戦ではどちらにつくべきだと思う?」
上級貴族でもある彼は、聖教から出された聖戦の宣言に対しても動く必要がある。
位置取りを考えれば、対混沌迷宮戦において先鋒を任されることになっても不思議ではない。
正直なところ、バスベルグは現在どちらの勢力につくべきかを決めかねていた。
無論、混沌迷宮の戦力が凄まじいのは、あの映像を見れば疑いようもないことだ。
ノニムの街に突如として現れた、Aランクモンスターを容易く屠ってみせた謎のエルフ。
彼女が混沌迷宮の戦力であったということも冒険者達の目撃情報で判明している。
けれど聖戦を発動させた以上、ラテラント王国が出す戦力は凄まじいものになるだろう。
たとえどれほど強力なモンスターであったとしても、生物である以上は疲れがあり、魔力切れになる。
今まで数多生まれた勇者や英雄達も、圧倒的な物量の前には脆くも崩れ去ってきた。
更に言えばミツル側の勢力につくということは、そのまま人類の敵とみなされてしまう危険性をはらんでいる。
一度ミツルの側につけば、たとえ勝とうが、今後引き起こされる更なる騒乱に巻き込まれることは避けられないだろう。
彼が迷う素振りを見せても、子爵の態度は変わらない。
子爵はただじっとバスベルグを見つめ、ゆっくりと言い含めるように、
「――悪いことは言いません、こちら側につくべきです。私に言えるのはそれだけです」
子爵の真剣な表情に、バスベルグは頷く。
そうだ、私はそれを見極めるためにここに来たのではないか。
バスベルグは改めて覚悟を決め、自分の頬を軽く叩いた。
それからしばらくして、ゆっくりとドアが開き、ミツルが中へと入ってくる。
バスベルグは彼の姿を視界に収めると同時――己の愚かさを悟った。
(これは――これはたかが王国の上級貴族がどうこうできるような、そんなちゃちな存在ではない!)
バスベルグはミツルへ頭を下げ、ミツルの居ない場で彼への非礼を詫びた。
――自身の後ろの影が伸び、ゆらゆらと揺れる悪魔の尻尾が見えていたことに、ついぞ気付くことはないまま。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます