第32話


 マサラダの街を治めている貴族は、その名をリンドバーグ子爵という。


 いくつかの村と街を治めている彼は現在、本邸のある街を去り、マサラダの街に急遽用意することになった領主館に滞在していた。


 自分の統治する街の近くに突如としてダンジョンが生まれたのだ。

 何かあった時のためにマサラダにその身を置くというのは、非常に理に適っていると言える。


 街を悩ませる魔物被害との対策上、バリスとは顔を合わせる機会も多く、更に言うとその頻度は混沌迷宮が現れてからの数ヶ月の間に、今までの数十倍にも上っている。


 当然ながら今回の一件においても、両者は顔を突き合わせて話をすることになった。

 唯一今までと違うことがあるとすれば――その会談に、混沌迷宮のダンジョンマスターであるミツルも参加することになったという点だろうか。


「……というわけです。斥候からの情報によれば、現在キルゴア伯爵は領軍三百に抱えている大量の冒険者達を引き連れ、このマサラダの街に向かっていると。その中には認定勇者の姿も確認できたとのことです」


「伯爵軍に勇者まで……とてもではないが、マサラダにある戦力で防衛などできるはずがない」


 バリスからもたらされた報告を聞き机の上に視線を固定させているのは、四十も半ばを過ぎた頃の壮年の偉丈夫だった。

 ピンと張ったカイゼル髭はキツい印象を与えるが、その上にある碧の瞳は丸く柔らかい。


 貴族としての威厳を身につけようとして失敗している、人の良さそうなおじさん……そんな第一印象を人に抱かせる風体をしている人物こそ、このマサラダの街を治めるリンドバーグ子爵であるマゲル・リンドバーグその人である。


 リンドバーグ子爵家の領軍の規模はかなり少ない。

 常備軍の数は五十にも満たず、いざ戦時となれば農民達を動員してなんとか数を揃えるのが精一杯という程度の国防力しか持ち合わせていない。

 ただ今までは、それでもなんの問題もなかったのだ。


 なぜならリンドバーグ子爵家の領地には、統治するほとんど旨味がなかったからである。

 財政も黒になったり赤になったりというギリギリな状態だったこともあり、誰もリンドバーグ子爵領を狙おうとする人間はいなかった。


 主要な産業もなく寒村や規模の小さな街を治める子爵の事情が変わったのは、やはり混沌迷宮の一件があってからのことだろう。


 経済的に従属するところの多かった子爵家の躍進が気に入らない。

 今まで散々ちょっかいをかけてきたが、それが今回とうとう実力行使に変わったというわけだ。


「では、子爵はどうするつもりなのですか?」


 子爵を相手にしても頭を垂れることなく自信ありげな様子を崩さないのは、混沌迷宮のダンジョンマスターであるミツルだ。


 ミツルはダンジョン経営を円滑に進めるため、そしてこの世界の権力者達と関わり合いを持つため、対象をバリスと子爵の二人に絞り、定期的に話し合いの場を設けるようにしていた。


 今回三人での秘密の会合が開かれることになったは、偶然にも伯爵軍出立の報を聞いたタイミングだった。

 伯爵軍のことを知っていたのではないかと邪推したくなるようなタイミングだ。


((ひょっとしなくとも、事情を理解しているのだろうな……))


 内心でそう思う二人だったが、無論自分の考えを口に出すことはない。

 ミツルの後ろには美貌のエルフである『始原』のベルナデットが控えている。


 そして目で見ることこそできないが、ミツルの影には自分達では及びもつかないような強力な悪魔が控えていることも知っている。


 ダンジョンマスターであるミツルは、この街が攻められるという話を聞いてもまったく動じる様子はない。

 彼はそれだけの戦力を有しているからだ。

 故にリンドバーグ子爵マゲルは、慎重に言葉を選ぶ。


「降伏するしかないだろう……私の首を条件にしてでも、街を明け渡すしかない」


「それでいいのですか?」


「――いいわけがないだろう……っ!」


 子爵領は風光明媚とも言えないような、片田舎の何もない土地だ。

 けれどそれでも彼が父祖から先祖代々受け継いできた、大切な領地であることに変わりはない。


 領地貴族にとってはその領民が、土地が、そこに生きる動物の一匹に至るまで全てが領主の宝物だ。

 彼は領民達を何よりも愛し、領民達に親しまれる領主であった。


 男爵家より貧乏と蔑まれようが、隣のキルゴア伯爵家からの圧力に屈し上納金を渡すことになろうが、それでも耐えてきた。


「だが他に……方法がないのだっ……」


 ラテラント王国においては、王権の絶対性が崩れてから久しい。

 故に王国内の各貴族家は勢力を伸張すべく、日々争いを繰り広げている。


 領地貴族に求められる者は武力だ。

 だが子爵家には、何もない。

 強力な冒険者を雇えるだけの魅力も、常備軍を維持するだけの金も、何もないのだ。


 故に強力な貴族家に攻められてしまえば、彼は抗する術を持たない。

 いざという時のためにキルゴア伯爵を頼みの綱としていたというのに、肝心の頼みの綱に攻め立てられてしまえば、もうどうしようもない。


 子爵領は伯爵領に吸収されることになるだろう。

 下手に抵抗をすれば略奪の憂き目に遭うかもしれないが、即座に全てを明け渡せば、領民達は被害を受けることなく終えることができるかもしれない。


 既に子爵の脳内の算盤は、どう負ければ領民を守れるのかという計算を弾き始めていた。

 当然ながらその中に、自分の命は勘定に入っていない。


 そんな風に思い悩んでいた子爵へ、ミツルはなんでもないことのように告げる。


「方法ならありますよ」


「……どういう意味だ?」


「簡単なことです……私達が戦えばいい。子爵領で暮らす我らは、いわば子爵の領民も同然。であれば子爵の危機に戦うことは、なんらおかしなことではないでしょう?」


 ミツルは笑う。

 強者だけが許される、余裕の笑み。

 ゾッとするほどに純真な笑みに、マゲルは思わず唾を飲み込んだ。


 彼には見えた。

 ミツルの後ろに控えている、無限の軍勢が。

 そして彼らによって引き起こされることになるであろう、数多の惨劇が。


「だが、それは……」


 無論、マゲルとて伯爵軍の襲来を耳にして、その選択肢を一度も考えなかったといえば嘘になる。


 けれどそれは――混沌迷宮の魔物の力を借りるということは、今までのようにダンジョンを攻略し、その恩恵を受けるのとは話がまったく違う。


 ダンジョンの魔物に守ってもらうということは即ち、表立って魔物と手を組むと、世界に喧伝するということだ。

 そうなれば、果たしてマサラダの街は、子爵領は、一体どうなるか――まったく予想がつかない。


 世界の敵として、聖教から認定される可能性も高いだろう。

 その先にあるものが、この伯爵軍の襲来が些事に思えるような波乱の連続であることは、容易に想像がついた。


 手をこまねいているだけでは、伯爵に良いようにされる。

 けれどなんとかするために混沌迷宮の力を借りれば……。


 マゲルは必死に頭を回した。

 あまりに真剣に思考を続けたあまり、鼻から血を流した彼は、数分の熟慮の上にゆっくりと立ち上がる。


 そして彼は――目の前に居る悪魔へ、その手を差し出した。

 その手をゆっくりと取るミツルは、その笑みを深める。


「お任せください。子爵の敵を、木っ端微塵に粉砕してみせましょう――混沌迷宮の総力を以て」


(なるほど、魔王とは……言い得て妙だ)


 この瞬間、以前バリスがミツルをそう評したその真の意味を、マゲルは理解した。

 だが彼には目の前にいる魔王は、歴史に名を残した魔王よりもはるかに質が悪いように思えた。


 目の前の彼は決して、世界の全てを敵に回そうとしているわけではない。

 それどころか、その行動は善性のものでしかないのだ。

 彼はあくまでも善意の第三者として、困っている自分を助けようとしてくれているのだから。


 自分はきっと助かるだろう。

 そしてこれからも助け支え合う協力関係を、彼と築くことができるに違いない。


 けれどその先にあるものは……そう考えると、握手を交わした手が、ぶるりと震えた。


「どうかしましたか?」


「いや……なんでもない」


 人の知性によって振るわれる、凶悪な魔物の力……万魔を従える彼の力に頼ることを決める。


 ――この日、マゲルとバリスは、ミツルと正式に手を組むことになる。

 そしてその二日後。

 伯爵軍はマサラダの街の前にある平野へ布陣した。


 降伏を求める彼らへマゲルが出した返答を、ここに記そう。


『我らは伯爵の武力には屈しない。目には目を、歯には歯を。そして――理不尽には更なる理不尽をぶつけよう』






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