その憧憬

青年は旅立つ

 わずかな着替えを詰め込んだ背負い袋は、上から短弓を斜めに掛けてある。腰には長剣、背中側には火口箱と水袋、そして矢筒。

 長旅の疲労に備えて、革鎧はなめしていないものを用意した。古めかしいが厚手の外套は、生前の祖父が良く使っていた逸品である。


「…よし」


 履き慣れたブーツで地面を何度か軽やかに踏むと、まだあどけなさを残す顔立ちのネルエスは、満足そうに呟く。


「いいかい、命あっての物種だよ?無理したって、何にも良い事なんてないんだからね?」

「大丈夫だよ。僕がそんな無茶する様な性格じゃないのは知ってるでしょ?」

「勿論知ってるよ。知ってるけれど…」


 縋る様な目に涙を浮かべる母親に、ネルエスは苦笑いすると、腰を屈めて視線を合わせる。


「母さんの心配する気持ち、凄く嬉しいよ。お陰で心強く旅立てる」

「ネルエス」


 穏やかな声色の父は、数年前の大病から杖が手放せないでいた。


「たまには手紙を書きなさい。内容などなくても構わない。元気でやっていると知れるだけで、私達には充分に嬉しい報せだ」

「約束しますよ、父さん。僕だって、なにも皆を寂しくさせたいわけじゃないですから」

「「お兄ちゃん!!」」


 我慢しきれなくなった幼い妹と弟が、両親の背後から駆け寄った。ネルエスの両足にしがみつき、大粒の涙を流す。


「ほんとうに行っちゃうの…?」

「あぁ、行ってくる。二人とも、僕がいなくてもきちんと良い子にしてるんだぞ」

「…やだよ…お兄ちゃんいなくなるの…」

「…いつ?いつ帰ってきてくれるの…?」


 自分を見上げる四つの無垢な眼に、ネルエスの堅かったはずの決意がにわかに揺らいだ。

 だが、と必死に拳を握り、込み上げる涙を飲み込んで笑顔を作る。


「たまには帰ってくるよ。父さんと母さんの言う事を聞いて、二人が良い子にしてたらね」


 精一杯の嘘だった。

 自分が戻ってきてしまえば、また明日の食い扶持に困り果てる毎日が始まってしまう。




 スロデア南東、この山合の寒村がネルエスの故郷である。人々は畑を耕し、或いは牛を飼い、細々と生計を立てていた。

 言わずもがな、スロデアは貴族の為に貴族が拵えた腐った国である。表向きは牧歌的に思える暮らしも、税収として殆どが巻き上げられ、実情は悲惨だった。


 ネルエスが村を出る決意を固めたのも、そうせざるを得ないところにまで追い詰められていたからだった。

 二頭の牛から獲れる乳、母の営む小さな畑、そして狩猟した獣の革。家族五人で暮らすには、あまりに収入が心許ない。

 いつも腹を空かせている妹達を見かねたネルエスは、一念発起して傭兵に身をやつし、その稼ぎを家に回す事にしたのだった。



 夕闇迫る森の中、ネルエスは岩陰にじっと身を潜める。少し先に見えるのは、小さな狐だった。低木の木の実を獲ろうと大きく身体を伸ばしている。

 こちらは風上。匂いに警戒される心配はない。いつもの狩りと同じ様に、風が木の葉を揺らす音に併せて、ネルエスはゆっくりと弦を引き、静かに矢を放った。


 ギャウッ!


 悲鳴が上がり、狐がどさりと倒れ込む。ネルエスが放った矢は、獣の喉元を見事に捉えていた。


「ごめんな。ありがとう」


 膝を付いて頭を下げた後、ネルエスは懐から取り出した短刀を手に狐を捌いていく。

 慣れた手つきで肉と皮を剥がしながら、気付けば昔を思い出していた。



 初めて狩りをしたのは十歳の誕生日だった。まだ足腰に自由が効いた父に連れられ、初めて放った矢は幸運にもウサギを捉えた。

 嬉しさよりも驚きが勝っていたネルエスの頭を何度も撫でながら、父は破顔した。


「凄いぞネルエス。お前にはきっと弓の才覚がある」


 たったの一言。だが、大好きな父からの称賛は、ネルエスを真摯に弓術に向かわせるのに充分な力を持っていた。今では「村一番の腕前」と言われる事も少なくない。



「…村一番、か…」


 その村には、きっともう戻れない。戻りたくとも。


 希望を見据えて飛び出したはずの旅路で、ネルエスは何度も故郷を思い出し、独り頬を濡らしていた。

 そして、その度に改めて思い返す。



 僕には弓がある。これでのしあがって、家族に楽させてやるんだろ。

 だから弱気になるな。そんな暇なんてない。



 自分を諫めながら孤独な旅路を半月繰り返した後、ネルエスはスロデア王都トローデンへと辿り着いた。

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