名前は何がいいだろ

「…ここに?犬が?」

「そうだよ、ほら。こっち見てるじゃないか…あぁ、またそんな可愛い顔して…おい、どうしたー?」


 屈み込んだネネイは、怪訝そうな顔でテーブルの下を見回している。

 だが、どれだけ注意深く見てみたところで、テーブルを支える三本の脚と、向かいで締まらない顔をしているレジアナがいるだけだった。

 言うまでもなく、レジアナが発した後半の浮わついた語調は、その見えない犬に向けられている。


「私には何も見えませんね…。反応しないところを見る限り、お姉ちゃんにも分かんないみたいですよ」


「頼みますよ総団長…まだ片足夢の中ですか?」

「そんなになるんなら、いっそ飼っちゃえば良いんですよ」


 近くに座る傭兵達が笑いながらレジアナに声をかけたが、当の本人は至って真剣にテーブルの下を見つめている。


「…なんで私にしか見えないんだろうね、この仔は。今だって私の方を向いて…あぁもう…可愛いったらないね、クソッ!」

「今、苛立つところありました?」


 情緒不安定なレジアナに、眉をハの字にして微笑んだネネイだったが、「でも」と続ける。


「皆には見えなくて、総団長だけが見えてる…きっと屍術が絡んでるとは思うんですよね。じゃなけりゃ説明がつかないですし」

「…じゃあこいつは、やっぱり」

幽霊ゴースト地縛霊ファントムか…何にせよ、間違いなく生きてはいませんよ」


 敢えて冷静に紡がれたネネイの言葉に、レジアナの胸が締め付けられた。

 忙しく呼吸を繰り返しながら、パタパタと尾を振る犬は、レジアナを恐れる風もなく、本当に生きている様にしか見えない。


「…置いてかなきゃ駄目?」

「駄目って事はないですよ。今のところは無害ですから」


 レジアナの上目遣いも懇願も、ネネイはどうやら予測していた様だった。すぐ返答した後、腕を組む。


「ただ、その仔が一緒に来るかどうかですよね。地縛霊ファントムだった場合、この酒場に思い残す事があるはずですから、きっとそこから動きませんよ」

「怖ぇ事言わねぇでくれよ」


 カウンターの奥で会話を拾ってしまった親父が、あからさまに顔をしかめた。


「なんだい親父。そんないかつい顔してるくせに、幽霊は苦手かい?」

「あいにく俺は見えねぇモノは信じない性分たちでね」


 口の端を上げたレジアナの問いかけに、親父は肩を竦める。


「犬だよ。小せぇ頃に追いかけ回されてから、ずっと犬が駄目なんだ。店にだって入れたこた一度もねぇ。つまり、その見えねぇ犬とやらがうちに思い残す事なんざねぇはずだ」

「…って事は、その仔は地縛霊ファントムじゃないですね、少なくとも。ここにいなきゃいけない理由はないですから」


 ネネイが結論付けるや否や、レジアナは満面の笑みで彼女にしか見えない仔犬を抱き上げる。


「だってさー。聞いてただろ?一緒に行こうか、な!…こら、くすぐったいよ!」


「…人間の目尻ってあそこまで下がるものなんだな」


 すっかり骨抜きになっているレジアナに傭兵の一人が呟くと、隣の一人は自分の腕をさする。


「っつうかよ、俺ぁもう姐さんが怖くなってきたぜ…何もねぇ空間相手にあの笑顔だぞ?」

「あんた達ね…面白半分にからかってると、後で片っ端から蹴り上げられるよ?」


 小さく溜め息を吐いたネネイは、レジアナの隣にしゃがみ込む。


「で…どうなんです、その仔。連れて行けそうなんですか?」

「ここにいなきゃいけない訳じゃないみたいだし、大丈夫さ、きっと。…ほーら、よしよし」


 レジアナがそう応じた時。

 両手で鼻面をワシワシと撫でられていた仔犬は、一声甲高く鳴くと、突然酒場の外へと駆け出した。


「あ、ちょっと!」


 思わず声を上げたレジアナは、酒場の出口を黙って見つめている。その背中に、ネネイが再び溜め息を吐いた。


「逃げられちゃいましたか…あんまり気を落とさないで下さいね」

「…違うよ。あの仔は逃げてない」

「…どういう事ですか?」


 レジアナの視線の先、外の通りに駆け出した仔犬は、こちらを見ておとなしく座っている。

 小さな黒い瞳が、一生懸命彼女を見つめていた。


「どこかに案内したいんだ、私を」





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