【中編】迷犬と彼女

寝惚けてんのかね

 春先の静かな夜。窓から差す月光が、ベッドに横たわるレジアナの姿を照らし出していた。

 薄手の短衣から伸びるしなやかな手足と身体の曲線が、薄明かりに艶かしく映えている。



 規則正しく寝息を立てていたはずの彼女が、不意に目を開けた。横になったまま、五感を鋭く研ぎ澄ます。


 グッととわずかに小さく鳴った床板の音を、彼女の耳は聞き逃さない。枕元にあった棚の荷袋へと手を伸ばすや、短刀を音の元へと投げ放った。

 だが、成果はない。鋭い刃は乾いた音を立てて壁に突き立っただけだった。


「…おかしいね…」


 呟いたレジアナは、起き上がって短刀を引き抜くとしゃがみ込んだ。月明かりに浮かぶ床板をまじまじと見つめたが、見た限りでは何の痕跡もない。


 だが、長年培ってきた自身の五感が、彼女に告げていた。

 今のは夢ではない、確かに何かの気配がしたと。




「おふぁー……よう、…ネネイ」

「お早うございます、総団長…って、どうしたんですその寝癖?逆さまになって寝てたんですか?」

「あいにく、そこまで私は器用じゃないよ」


 長い赤髪を上へと全て突き立てたレジアナは、酒場の椅子で眠い目をこする。


「ろくに眠れなかったんだ、昨日…最悪だよ」


 何かの気配を感じて一度目を覚まして以降、レジアナの眠りは何かの気配によって度々阻害された。都度跳ね起きては警戒し、開け放った窓の外を油断なく睨み、部屋の扉に息を殺して耳をそばだてる。

 緊張と仮眠を何度も行き来した頃合いで空は白み始め、ようやくレジアナは気絶する様に眠りについたのだった。


「本当に大丈夫ですか?目の下、ちょっと隈浮かんでますよ?」

「不健康そうな私も魅力的だろ?」

「そんな軽口叩けるなら問題なさそうですね。朝ご飯にしましょう。今日の予定はその後です」


 レジアナ渾身の強がりを軽くいなしたネネイは、酒場の主人の下へと駆けていく。その背中を見送りながら、レジアナはうつらうつらと船を漕いでいた。



 「誰が」でも「どの分団が」でもない。ひっきりなしに舞い込む依頼相手に、フクロウ団は相変わらず多忙を極めていた。

 そもそも、依頼の数と分団の数が合っていない上、期限が設けられた依頼もある。それならば…と、もっとも距離のある依頼を最終目的として、道すがら別の依頼をこなす、一度の遠征で複数の依頼を片付ける形が定着している。


 今のレジアナ達も、その例に漏れず遠征中である。解決した依頼はふたつ。この先、あと三つの依頼を二か月のうちに終わらせる算段だった。



「…ん」


 ふと足元に気配を感じたレジアナは、視線を落とした。

 テーブルの下、しきりに尾を振りながら、彼女を見上げる一匹の犬がいる。程よく波打った赤茶けた毛並み、大きく垂れた耳。そのつぶらな黒い瞳に、レジアナの眠気が一気に吹き飛んだ。


「どうしたお前、どこから入ってきた?腹でも減ってるのか?ん?」


 話しかけたところで返事などあるはずもないが、それでも話しかけずにはいられないのが愛玩家である。

 幼少の頃に生家で飼っていた影響もあって、レジアナは無類の犬好きだった。もっとも、傭兵という生業ではどう頑張っても面倒を見きれない為、仕方なく諦めている。


「そうだな…味が付いてるのは良くないか」


 うたた寝の間にネネイが置いてくれた朝食を見回すと、レジアナは席を立った。カウンター越しに、酒場の親父を呼ぶ。


「豚でも鶏でも何でも良いんだ、あの仔に何か生肉を用意してくれないか?」

「あの子…って」


 親父はレジアナが指した方へと目を細めた後、眉間に皺を寄せた。


「馬鹿言っちゃいけねぇ。生肉なんざ間違いなく腹壊すぞってあのに伝えてやんな」

「違う、ネネイじゃないよ。私がいたテーブルの下にいるあの犬だよ、犬」


 苦笑いするレジアナの言葉に、親父は再び目を細めた。


「まぁあんた、見たところ良く眠れてねぇみてぇだからな。無理せずもう少し休んでったらどうだ」

「…何の話だい」

「そりゃこっちの台詞だよ。何もいねぇじゃねぇか」


 親父は軽い溜息とレジアナを残して、いそいそと去っていく。後には目を丸くしたレジアナだけが残された。



「…何も……いない…?」


 テーブルの下、舌を出してこちらを見つめる犬の姿が、レジアナには確かに見えていた。

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