芽吹きの音
他の国々に訪れた冬が去ってからも、デルヴァンの大地を覆う氷雪は厚い。それだけに、一足遅い春が訪れた時の喜びはひとしおである。
そして春を待ちわびているのは、何も人間や亜人だけではない。
「数は……三体か」
村の外れにある小高い丘から、ナシュレンは遠眼鏡を覗いて低く唸った。
レンズの先に映る打ち棄てられた廃村を、我が物顔でオーガがのし歩いている。
「雪解けを待って動き出した様ですな。数が少ないのが唯一の救いですが」
「だからこそ危険とも言える…というわけか」
馬首を並べるアゼネフの総意を、ナシュレンは早々に汲み取る。
オーガの一部の種族には、群れを束ねる長に対して、若く力の強い者が戦いを挑み、その座を奪い合う風習がある。
敗北した者や近親者は群れから追い出された「はぐれ」となり、再び挑戦出来る別の集落を探して旅を続けるという。
そして見る限り、三匹のオーガはまだ若く、身体もひと際大きい様に思えた。恐らく、兄弟か何かなのだろう。
「…よりによって、過ごしやすい場所を見つけてしまったな」
廃村には、まだ朽ちずに残っている家屋が幾つもある。
雨風を――殊、デルヴァンに於いては長い冬を――凌げるだけでも、魔物にとっては格好の巣になり得るのだが、何よりの問題は、廃村が街道に面しているという事実だった。
「このままでは隊商が村に近寄れない上、こちらからも出ていく事が適いません」
「討伐要請さえ通して貰えないというわけか」
街道を北上した先は、ロルノワの領都へと続いている。傍らを通る荷馬車や人馬を、オーガ達が見過ごしてくれるとは思い難い。
「物資は南の村々に少しずつ分けて貰うしかないとして…あれらをどうするかだ」
「巡回警備兵団が村を発ったのは先月。この地区の方々の村を巡って、再びサラドワを訪れるのは…恐らく、早くても来月半ばでしょうな」
「…遅すぎるな…」
無論、村民のそれぞれにも、そしてサラドワの村自体にも、備蓄がなかったわけではない。
だが、あくまで通年通り、厳冬を乗り切る目的での蓄えである。それも、日々を切り詰めながらの備蓄だった。
春の先を見据える事など、痩せた土地の寒村には出来ようはずもなかった。
「…また…何も出来ないのか」
呟いたナシュレンは奥歯を強く噛み締めると、何かを振りほどく様に強く頭を振った。
「屋敷に戻ろう。何にせよ、何か手を打たねばならん」
やがて屋敷に近付いた二騎の人馬は、その足を緩めざるを得なかった。
「おい、戻って来られたぞ!」
青の浅い春空に村長の声が響くや、ナシュレン達に詰め寄ってきたのは村の男達だった。
「お帰りなさいませ、ナシュレン様!」
「…皆…どうした、何かあったか」
「何かも何も、いるんですよね?街道の先にオーガが」
思わず言葉に詰まったナシュレンの代わりに、アゼネフがわずかに馬を前進させる。
「あぁ…村から半日もいかないあの廃村に住み着いている様だ。だが安心して欲しい。こちらに攻め入ってくる気配は今のところない」
「…でも、そんなところにいられたんじゃ、隊商は村に来られませんよね」
「作物の売買も出来ねぇだけじゃねえ。足りてねぇ分の食材だって買い込めねぇ」
男達の危惧を、ナシュレンは目を瞑り、眉間に皺を寄せて聞いていた。
たったの一年やそこらで、状況など何も変えられない。
薄々分かってはきていたが、こうして村民の口から実際に耳にすると、改めて己の無力さにうちひしがれてしまう。
「だからね…俺達考えたんです。冬の間からずっと話してて」
「ナシュレン様、アゼネフ様。改めてお願いがございます」
男達を掻き分け、村長が二人の前へと進み出る。
「わしらサラドワの男衆に、剣の稽古をつけていただきたいのです」
「剣の…稽古…」
耳にしたままをなぞったナシュレンに、村の男達は身を乗り出す。
「このままオーガが立ち去るのを待ってたんじゃ、村はずっとひもじいまんまだ。年寄りや子供…体力のない人間から倒れちまう」
「同じ倒れるなら、村の危機を救う為…オーガに立ち向かって倒れる方が、まだ意味があるんです!」
「長い間、警備兵団に頼りきり…それが間違ってたんだ。自分達の村だ、自分達で何とかするしかねぇんだよな、やっぱり」
「…皆…」
困惑を隠せないナシュレンは、傍らのアゼネフを見やった。木訥な側近がただ一度、小さく頷く様を目にすると、胸の真ん中が強く熱を持った。
…皆のこの変化も、もし俺がもたらしたのなら。
「…俺の手解きは厳しいぞ。気を緩めず、しっかりついてきて欲しい」
俺には、彼らの思いに応える責務がある。
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