橙色の灯
西大陸のどの国よりも早く、北限のデルヴァンに厳しい冬が訪れた。
連日の降雪こそまだ見られないが、吹き荒ぶ風の冷たさは、肌を切らんばかりに鋭い。
「…話にならん」
小さく呟いたナシュレンは、読み終えた手紙をぐしゃりと丸めた。傍らに立つアゼネフは、若い彼の不服に添う。
「将軍は何と」
「税収の低減、防壁の建築、警備団の派遣…どの陳情も色好い返事は貰えなかった。手を尽くして現状を訴えたつもりなのだがな」
過去の収穫をまとめた台帳、幾度も書き直した防壁の計画図案。
机上に広がる書類を眺めるナシュレンの顔を、ランタンの灯が照らす。
彼が抱える苛立ちの矛先は、村に来たばかりの頃とは既に異なっていた。
「…確かに、俺が滞在する村ばかり厚遇するわけにはいかん。ここと同じ様に苦しむ村など、ごまんとある。父上の言いたい事も分かっているつもりだ。
だからこそ、税収を抑える提案まで用意したんだ。領内全てを変えるのなら問題はないはずだろ」
「法を動かすのは難しい…という事です。一朝一夕になど進められるものではありますまい」
「それでは遅いのが、父上には分からんのか…!」
夏は短く、冬が長く厳しいデルヴァンでは、作物の収穫が安定して見込めない。
そして、村に課せられた税収は、およそ諸事情を鑑みているとは言い難いほどの高さだった。
無論、所領の管理や運営には金がかかる。国政など何も知らないナシュレンにも、その程度の話は分かっていた。
だが、これまでは台帳や書面の上で並んでいた数字が、今は目の前に現実の困窮として広がっている以上、何もしない事など出来なかった。
腕を組み、溜め息を吐き、眉間に皺を刻む。
しばらくそうして過ごしていたナシュレンだったが、ふと覚えた静けさに顔を上げた。
「…二人は」
「炊事場です」
「炊事場…?隣の部屋にいないのか」
ナシュレンの問いかけに、アゼネフは表情を変えない。
「ナシュレン様の考え事に差し障りがあるかと」
「おかしな気を遣うな。隣の部屋が騒がしいのには、もう慣れている」
席を立ったナシュレンは、そう広くない屋敷を足早に進んだ。
数歩の後を付き従うアゼネフをちらりと見やる。
「あれらはまだ幼子だぞ。火や刃物があるところになど近付けさせるな」
「ヘルガもおります、心配は要らないかと」
「ならば尚更だ。年寄りの負担を増やしてしまうばかりではないか」
「…変わられましたな」
「何か言ったか」
「いえ、何も」
穏やかに目を伏せたアゼネフをよそに、ナシュレンは炊事場の扉を乱暴に開けた。
「え?!ナシュレンさま?!」
「…なんで来たの…?」
踏み台の上で、玉杓子を手にしたフランダが目を丸くし、傍らで椅子に座るエランドは、眉をハの字にする。
静かに煮込まれた野菜の香りが漂う炊事場で、二人を背にしたヘルガは、ナシュレンを見ると、その顔を一層皺だらけにして微笑んだ。
「おやおや、ナシュレン様…もう少しお待ち下さいね。もう少しで出来上がりますので」
「腹が減って来たのではない。俺は」
ヘルガに詰め寄りかけたナシュレンの隣を足早に進んだフランダは、腰に手を当ててアゼネフを見上げる。
「もぉー…アゼネフさん!ナシュレンさま、連れてこないでよ!せっかくひみつにしてたのに!」
「あーあ…見つかっちゃった…」
呟いたエランドが、奥で肩を震わせ始める。
双子を交互に見やった後、しゃがんだアゼネフは、怒りの収まらないフランダに小さく頭を下げた。
「申し訳ない…二人がどうしているか、ナシュレン様が気にしていたものでな」
「それなら何の心配も要りませんでしたよ、えぇ。私の仕事を一生懸命手伝ってくれてました」
目を細めたヘルガが、ゆっくりとした口調で続ける。
「ナシュレン様がいつも頑張っておられるのを、この子達はこの子達なりに感じているのですよ…『美味しいご飯を作ってあげたら喜ぶかな』と訊いてきましたからね」
「…お前達…まさか俺の為に…」
呆然とするナシュレンを、フランダは満面の笑みで見上げる。
「ヘルガさんと三人で作ったから、今日のご飯は三倍おいしいよ!」
「ナシュレンさま…ぼくね、初めてお芋の皮、…ちょっとだけむいたよ…」
「…そうか…」
焦ったところで、結果など出ない。今出来る事を丁寧に積み重ねていけば良い。
きっと…こうして見てくれて、分かってくれる者がいる。
「…ありがとう、フランダ、エランド」
自身に向けられた幼い四つの眼に、ナシュレンは自分の心が柔らかくほどけていくのを感じていた。
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