その男、まさしく

 いつからそうなったのか、或いは初めからそうだったのか。前述の通り、スロデア陸軍は事実上、形骸化していた。

 もっともらしく編成こそ成されているものの、有事の際の指揮系統はおろか、どの部隊が先んじて動くのかさえあやふやと専らの噂だった。老いて尚盛んな提督率いる規律正しい海軍とは雲泥の差である。



「陸軍出身なんだろ、あのゴルダって教官」


 この数日、八十三期生の間では、ゴルダが度々話題の中心に上がる。


「なんでも歩兵部隊の将校だったらしいぜ」

「将校……ただの部隊長ってことか、なぁんだ」

「こういう言い方は良くないけど、たかが知れてるのかもしれないな」

「力量や資質を買われて兵学校ここに来たのではなく、何かしらの不祥事でも起こした結果かもしれませんわね」

「案外、金で買ったのかもしれないぞ」

「あぁ確かに!その線、なくはないね!」


 何せ出自が出自である。新任のはずの彼が、周囲を差し置いて主任指導官に着任した事実にさえ、何か裏があるはず…と、まことしやかに噂が飛び交った。


 加えて、着任から今日までの五日間、ゴルダは何もしていない。授業には顔を出すが一言も発さず、教室なら最後方から、演習等の外なら少し離れたところから、授業をじっと見続けていた。



「ほらな?やっぱり大した事ないんだよ、あの教官。口さえ挟めないんだから」

「とりあえず、何か喋って欲しいわよね。黙って見られてると肩が凝って仕方ないわ」


 すれ違った同期の発言を耳にしたレジアナは、いつもの仲間達へと首を回した。


「……だそうだよ。皆結構侮ってるみたいだけど、どう思う?」

「そんなはずないさ」


 即座に口を開いたのはウィルヴだった。


「あの眼光を見て何も感じないのは、残念ながら鈍感と言うしかないね。あれは口を挟めないんじゃない、敢えて挟んでないだけさ」

「俺もウィルヴと全く一緒だよ。様子を見ているんだと思う」

「様子?教官達の指導方針とか教え方とか…そういうのを見て学んでるって事?」


 問われたアレリオスは、頭の後ろで手を組みながら、傍らのギャラルを見下ろす。


「いいや、違う。ゴルダ教官が見ているのは、俺達生徒の方さ」

「間違いないね。いつだってひしひしと視線を感じるし…恐らく、一人ひとりを細かく観察してるのさ。あれは理由のある沈黙なんだよ」


 割って入ったレジアナは、少し先を歩く背中にも問う。


「ラインズ、あんたの見立てはどっちなんだい?あの教官が曲者か、そうじゃないか」

「そんなもん、どっちだって構やしないよ。実りのある学びがあるなら、俺はそれで充分満足……ふぁぁー…ふ」

「あははは!ラインズ、言ってる事とやってる事が海と沼ぐらい違うよ?」


 くるりと振り返ったラインズは、後ろ向きに歩きながら大きな欠伸を披露してみせる。気の抜けきったその様子に、少し不安そうだったギャラルも思わず破顔した。


「まぁ、恐らく動きがあるのなら来週さ。明日の休日はしっかり休んで、彼の授業に備えとこう」

「なんだよそれ…結局、普段と一緒じゃねえか」


 呆れた口調のラインズに、ウィルヴは柔和な笑みを向ける。


「変に肩に力を入れてても疲れるだけさ。こういう時は普段通りが一番って話だよ」




「……こ……これは…構えておくべき……だったんじゃない……か…?!」


 王都クバルカン郊外。週明けの初日、演習場から地獄は始まった。


 アレリオスの日焼けした小麦色の肌を、大量の汗が流れては浮かび上がる。向かいのウィルヴは、杖さながらに突き立てた訓練用の木剣に身体を預け、肩で大きく息をしていた。


「構えたって……どうにもなんない……だろ、こんなの……!」


 歯を食いしばり、木剣を振るったレジアナだったが、その両膝からストンと力が抜け、無様に腰から砕け落ちた。彼女から随分離れた場所では、既にラインズが仰向けになったまま、全く動けずにいる。


「水をかけろ」


 言われるがまま、副教官は川で汲んだ水をぶちまけた。失っていた意識を無理矢理引き戻されたギャラルは、視界の前で仁王立ちするゴルダを見るや半泣きで「ひい!」と小さく叫ぶ。


「八十三期生全員で、倒れずに木剣を三百回振る…たったこれだけの事に、どれだけ時間をかければ気が済む」


 中肉中背のはずのゴルダが、膨れ上がったようにギャラルには見えた。更にどさりと音がすると、ゴルダは小さく息を吐く。


「今のウィルヴで半数が倒れた。もう一度最初から」

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