青年は付き従う
結局、ネルエスがクーゼルクの過去を知ったのは、入団してから一年近くが経った頃だった。もっとも、彼以外の全ての分団員達も、同じ時に真実を知らされた形ではあったが。
「そういった経緯で、俺は審問会から命を狙われている。皆を危険に晒したのは俺だ。済まない」
スロデア南西の寒村、コルス村。
急襲を退けた後、荒れ果てた酒場で、クーゼルクは深々と頭を垂れる。
だが、彼を責める者は誰一人としていなかった。正しくは、彼が連綿と抱え続けてきた過去の重さに言葉を見つけられずにいる。
禁忌を破り、森を抜けてまで愛した人間の女性と、彼女との愛の形でもあった、まだ見ぬ子。
双方をグリーグレアンが差し向けた審問会によって同時に喪い、それでも長命の種族としての生にさえ抗えず、ただ訪れる死を待つ為に、傭兵を生業に選んだ――。口数の少ないクーゼルクが紡ぎ出す言葉は、一行にかつてない衝撃を与えていた。
「俺の下で働けないと思う者は、総団長に申し出てくれて構わない。それだけの話だ」
不愛想に放たれたクーゼルクの言葉は、慮る形を装った決別の様な響きを含んでいた。
「ネルエス…さん」
あからさまに迷いながら声をかけてきた新顔の傭兵に、当のネルエスは思わず苦笑いを禁じ得ない。
「だからエシューさん、敬称は止めて下さいよ。俺より三つも年上なんですから」
「そう言われても、団員歴はあんたの方が長い…です」
そう言ったきり、口を真一文字に閉じたエシューは、頑固に譲る気配を見せない。口角を上げたまま、ネルエスは溜め息をつく。
「じゃあ、その団員歴の長い先輩からの指示。僕に敬称は要りません。逆に、僕からは敬語で接します」
「少し勝手じゃないですか」
「僕にだって譲れない事はありますよ」
困惑するエシューを見やった後、ネルエスは改まって背筋を正した。
「…と言うか僕、年長者に敬語じゃないと調子が出ないんです。僕を助けると思って、どうか宜しくお願いします」
「…う、うん…分か……った」
仕方なく従ったエシューは、ネルエスの隣に座るや、意を決した顔で切り出す。
「その…ネルエス、は…あんな話があった後でも、分団長の傍にい続けているな」
「それは皆もそうですよ。あれから一週間経ちましたけど、クーゼルク分団からは誰も離脱者は出ていません」
穏やかな笑みを見せたネルエスに、エシューは小さく首を横に振る。
「それでも、皆分団長を思って、少し距離を取っている様に見える。付かず離れずで分団長の隣にいるのはネルエスだけだ」
「…その言い方だと、まるで僕が距離感を弁えない無作法者みたいですね」
ネルエスのわざと意地悪そうな口調に、エシューは目を見開く。
「いや、そういう事じゃないんだ、言いたい事は」
「…でも実際、そうなのかもしれません」
「…え」
エシューの視線の先、ネルエスの横顔は少し寂しそうに見える。
「…僕なんかにはどうにも出来ないと分かっていても、あんなに辛い過去を独りで抱えてきた分団長を、やっぱり独りにはしておけません」
それに、とネルエスは瞼を閉じる。
初めて同行した森の最奥、澄んだ泉のほとりに、一角獣は確かに現れた。
高い魔力と優れた肉体を持っていながらも、その温厚な気質故に一時は乱獲され、現在では殆ど目撃例はない。酷く警戒心が強い事も、彼らの生存が不確かな一因でもあった。
「…綺麗ですね」
驟雨の後に現われた純白の姿に、ネルエスは我知らず息を呑んだ。背に止まった小鳥を長い睫毛で見やった後、首を下げて静かに水を飲んでいる。その姿は、魔物や魔獣というより、神獣という表現がより適切だと思える。
「でも、どうやって一角獣が確かにいた事を証明するんです?」
「そこはほら、分団長が得意だからね、弓」
意味ありげに笑ったニザを前に、ネルエスは自身の表情がぎこちなく固まった事に気付く。
……殺してしまうつもりなんだな。
一角獣にまつわる何かを持ち帰らなければ、依頼には応えられない。薄々分かっていた事だった。
警戒させない為に取った距離は、充分過ぎるほどある。だが、クーゼルクの豪射を以てするなら、仕留める事などさして難しくはないだろう。
だが、かの獣が放つ静謐な神々しさに、ネルエスの心には少なくないわだかまりが生まれていた。調査しなければならないほど数が少ないなら、ここで命を奪ってしまうのは、どうしても得策とは思えない。
何か他の方法を考えませんか…そう提案しようと振り返ったネルエスは、クーゼルクが生い茂る枝葉の間から、黙って空を見上げている事に気が付いた。
何かと対話している様にも見える横顔に、ネルエスは開きかけた口を閉じた。狩猟の経験が告げている。「クーゼルクは、何かを待っている」と。
「……よし」
もうすぐ一時間が経とうかという頃、短く呟いたクーゼルクは弦を引き絞ると、つがえた矢を放った。ただし、それは一角獣に向けてではなく、生い茂る枝葉の間を縫い、上空を目指して風を切る。
直後に強い風が吹き抜けた。ざあっと鳴った森は生きているかの様に枝葉を揺らし、通り雨が置いて行った雨粒を、一斉に地表へと落下させていく。
苔むした倒木、泉へと続く川面、息を潜める傭兵達、遥か先にいる一角獣。森に息づく全てが、風の悪戯によって身体を濡らした。
その雨粒に紛れ、クーゼルクの放った矢が大きな放物線を描いて落下した。風雨を気にも留めず水を飲む獣の、象徴とも言える角の先端をわずかにかすめた矢は、多くの雨粒に紛れて泉へと沈んでいく。
そして一角獣は、自身の角の一部が欠け落ちた事にも気付かず、悠然と水を飲み続けていた。
来るだろう一瞬を待ち、一角獣という生命を微塵も脅かす事なく、依頼の為に角の先端を欠け取る。
経験、着想、技量、そして敬意。ネルエスが弓術を前に落涙したのは、後にも先にもこの一度だけだった。
「あんなに優しい矢を放てる人が救われないままだなんて、あんまりですからね」
エシューを真っ直ぐ見ながら、ネルエスはそう言って笑う。
【完】
月と魔竜とよしなしごと 待居 折 @mazzan
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