【中編】密偵は静かに暮らす

寸暇と遭遇

「…良い天気だなぁ…」


 見上げた視界いっぱいに広がる青に、ところどころ浮かぶ雲。眼下に目をやれば、忙しく行き交う人々の活気が大通りに漲っている。

 こざっぱりと言うよりは何もない部屋の窓辺で、ギャラルは独り頬杖をついていた。



 母国スロデアを離れ、国境を隔てたデルヴァン王国に仮住まいを始めてから、半年が過ぎようとしていた。

 諜報ギルド「名も無き銀貨」を束ねる若き頭目、渦禍うずかのギャラルが自ら潜伏している事自体、極めて異例である。大臣ニィズラールから彼に下された密命の重さが窺える事態だった。


 丹念な調査と迅速な報告。いち民衆に姿をやつしながら、ギャラルは持てる力の殆どをスロデアの為に捧げ続けている。とは言え。



「…そういや、市が出てるんだっけ」


 呟いたギャラルは大きく伸びると、手にした薄手の上着へと袖を通す。

 民衆の活気に当てられ、このところ働きづめだったのをようやく思い出した彼は、たった今、好天の今日を休日に定めていた。




 王城を囲う様に広がるデルヴァン王都アズノロワの街並みは、小綺麗でどこか華がある。すれ違う民衆の表情からは、王都で暮らす喜びと誇りさえ感じられる。


「…これでもう少しあったかいと良いんだけどなぁ」


 呟きながら、ギャラルはわずかに背を丸めた。暦の上では初夏だというのに、時折吹く風はまだ冷たい。

 たった国境一本を挟んだだけで、こうも違うのか…と、初めの頃は大いに戸惑ったのを思い出す。少なくとも、冬支度はスロデアよりふた月ほど早くしなければならない。


 大通りの露店を物色しながら南下していくと、人の数が徐々に増え始めた。道具商の多い地区で大々的に開催されている骨董市が、今のギャラルの目的地である。



「さぁいらっしゃい、いらっしゃい!西の遺跡で見つかったばかり、正真正銘の掘り出し物だよ!」

「ねぇお姉さん達、魔具は要らないかい?頑張ってお安くなってんだ、ちょっと見てっておくれよ」

「魔法に関する古書を探しているんですけど…一本向こうの通り?そうですか、ありがとうございます」

「き、金貨二枚?!嘘だろ、こんな短刀がかよ?!」

「お客さん、良く見てごらんよ…鞘に刻まれた文様。それが古代帝国時代に作られた証なんだよ」


 丸められた敷物の山。香辛料の量り売り。どこかで焚かれる香の匂いと、絶え間ない人いきれ。人波に身を委ね、時には乱暴に押されながらも、ギャラルは喧騒を楽しんでいた。

 借家には、必要最低限の調度品が用意してある。身の回りの品にも困っていない。特に何かが欲しいわけではなかったが、うわんと大きく鳴る様な骨董市全体の活気に、ギャラルの口角は上がっていた。



 大通りを二本分、満足するまで歩き、隣の通りに並ぶ食べ物の露店を流し見た後も、ギャラルは歩き続けていた。露店のない小路をしばらく進み続けると、周囲を見やりながら口を開いた。


「ねぇ、そこの君」


 声をかけられた人影は足を止めず、ギャラルから遠ざかる。小さく息を吐くと、ギャラルは人差し指で小さくルーンを切った。


「…え?あれ?え、え何?」


 すぐに上ずった声が上がった。意志に関係なく身体が向きを変え、脚が勝手にギャラルに向かって前進するのだから、困惑するのも無理はない。



 長いはずの詠唱の破棄、圧倒的な効力。肉体、或いは心まで。

 相手を意のままに操る精神魔法というただ一点に於いて、「渦禍うずか」の二つ名を持つギャラルは天才の領域に足を踏み入れている。



「返して貰えないかな、僕の財布」


 ギャラルが柔らかく請うと、目を丸くして直立していた女は一転、平然とした顔を装う。


「何の事?」

「だから財布だよ、僕の。隠していても無駄なのは、今分かったよね」


 そう言ったギャラルの片眉が上がる。


「どこかに持っているなら、全部脱いで貰うだけ。道中のどこかに隠したなら、そこに案内して貰えるし…勿論、警備兵のところに歩いていく事だって出来るけど、どうする?」

「…魔導士かよ、あんた。あーあ…運がなかったなぁ」


 両手を上げ、諦めた女はがくりと頭を垂れる。肩までの赤茶けた髪がばさりと揺れた時、ギャラルはわずかに尖った耳を見逃さなかった。


「…君、ハーフエルフか」

「だったら何よ」


 小さな驚きが思わず口を突いたギャラルに、女は視線を向けた。

 それは対峙してから今までのどれよりも鋭く、強かった。

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