落花、一転

 こざっぱりとした設えの部屋の隅で、ナシュレンは独り膝を抱え、爪を噛んでいた。

 一瞥した窓の外では、領都とは比べ物にならないほどの雪が深々と静かに降り積もっている。


「…くそっ!!くそが!!」


 口汚く罵って椅子を蹴り飛ばす。想像以上に大きな音が立つと、我に返ったナシュレンは慌ててドアを静かに見やった。

 誰の足音もしない事に安堵したナシュレンだったが、同時にまた苛立ちがこみ上げ、髪を掻きむしって床を拳で叩いた。

 その振動にも、反応はない。




 ふた月前。


 普段通り、豪勢な食事に舌鼓を打ち、たらふく酒を飲んで上機嫌だったナシュレンに、ガロスネフはいつもと同じく、柔らかい面持ちを向けていた。


「十八歳おめでとう、ナシュレン」

「あー…ありがとうございます」


 葡萄酒を瓶ごと飲み干しながら、適当に返したナシュレンに、ガロスネフは表情ひとつ変えず静かに続ける。


「貴方には明日からサラドワに行って貰います」

「サラドワ…?あんな僻地に俺が行く用事などありませんが」


 ナシュレンの横柄な返答も、ガロスネフにはどうやら想定内の様子だった。テーブルの上で両手を組み、目を伏せる。


「『十八になるまでは本人を尊重してあげて欲しい』…これが貴方の母、エリアーデの遺言でした。小さい頃から利かん坊でしたが、いずれ大人になるだろう…という願いも込められていたはずです」

「何を急に…今日は俺の誕生日なのですよ?辛気臭い話は止めて下さい」


 鼻で笑ったナシュレンだったが、ドアを開けて近衛兵達が次々と部屋に押し寄せると、顔色を失くした。


「長く病床に伏し、余命が刻々と削られる中でも、彼女は貴方を案じ続けていました。…誰に何をどう言われようとも、彼女の遺志は出来る限り汲んできたつもりです。

 ですが、貴方は変わらなかった。しばらく頭を冷やして来なさい」


 ゆっくりと上げられたガロスネフの視線に、ナシュレンは凍りついた。今まで見た覚えのない、冷徹な眼差しが彼を差す。それでも。


「ま…待って下さい!一体、俺が何をしたと言うのです?!理由が、理由を教えて下さい!!」

「…ここまでとは…つくづく嘆かわしい。捕らえよ」


 ガロスネフの溜め息と共に、近衛兵達が一斉に詰め寄り、暴れる隙を与えず素早く拘束する。

 何も出来ずに捕縛された事への焦りが、ナシュレンの声を大きくさせた。


「し…しばらくとはいつですか?!俺は…いつ戻って来れますか?!」

「貴方次第です。来年かもしれませんし、五年後かもしれません。…或いは、もう戻れない場合もあるかもしれませんね」


 言い終えた後、小さく溜め息を吐いたガロスネフはナシュレンへと再び冷たい視線を向けた。


「…縁を切らぬだけありがたいと思え」




 ロルノワ領、サラドワ。寂れた寒村の一角にある二階建ての家屋が、今のナシュレンの全てになっている。


「食事です」


 ガチャリと音を立てて置かれた簡素な夕食を、ナシュレンは監視されたまま無言で食べ進める。



 ここは彼自身が望んで来た場所ではない。勿論、連行されてきた直後、力ずくで逃亡を試みた。

 暴れるナシュレンをいとも簡単に組み伏せたのが、食事を運んできたこの中年の男、アゼネフだった。上背こそないが、頬と首筋の大きな傷痕が、彼を猛者だと無言で知らしめている。


「貴方様にお仕えする様、仰せつかっております。何卒宜しくお願い致します」


 取った腕を捻り、首筋を強く床に押し付けられながら、アゼネフは平坦に言い放った。

 勿論、呼吸するのが精一杯だったナシュレンは、返答どころではなかったが。


 以降、部屋で独り荒れたり、逃亡を試みる度、すぐさま現れる彼の手によって、小さな反乱はものの数分で鎮圧されている。



 身の回りの世話をしてくれる家臣も、酒を酌み交わす友人もいない。いるのは殆ど喋らない武骨な侍従のアゼネフと、炊事係の老婆が一人。


 サラドワにおけるナシュレンの厳格な日々は、残念ながらまだ始まったばかりだった。

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