山肌、蒼を増す
総勢三十三名の村人と、十二棟のひなびた家屋。小さな寒村の手本の様なサラドワには、日々を生きる以外の余白など残されてはいない。
「ふっ!…はっ!」
必然、ナシュレンに許された時間潰しは、アゼネフの用意した本をペラペラと流し読むか、今の様に、持て余した体力でひたすら木剣を振るかの二択だった。
「精が出ますな」
手狭な裏庭に現れたアゼネフを一瞥すると、ナシュレンは黙々と剣を振り続ける。
直立して流れる汗を見ていたアゼネフは、ややあった後、再び口を開いた。
「たまには散策でもいかがでしょう」
「二日目で飽きた。この村に見るべきところなどない」
「左様ですか」
こうして剣術に身を預ける間はまだ良かったが、ひと度動く事を止めてしまえば、また言い様のない苛立ちが湧き上がる。次いでぐるぐると恨み言が頭を巡るのも。
どうしてこんな目に遭わされている?父上は俺を見限ったのか?いつになれば帰れる?或いは本当に、もう二度と――。
この半年の間、嫌と言うほど自問自答を繰り返しているはずのナシュレンは、未だに正しい答えを見つけられずにいた。振り下ろす木剣には怒りが籠り、太刀筋が酷く乱れる。
その剣軌を、黙するアゼネフはじっと目で追っていた。
その日の朝、いつになく騒がしい物音でナシュレンは目を覚ました。扉の外、普段なら殆ど物音のしない廊下を、慌ただしく足音が何度も行き交っている。
「何かあったのか」
「火事です」
廊下に顔を出したナシュレンには目もくれず、外套を羽織ったアゼネフは厳しい横顔で家を飛び出した。彼の見せた異様な緊張に思わず息を呑みつつ、ナシュレンの足は自然と彼を追う。
「水を運べ!早く!!」
「くそ…全然足りねぇぞ、急いでくれ!」
轟々と音を立てる大きな炎が、視界の入道雲を覆い隠す。やがてメキメキと音を立て、小屋根がひしゃげて燃え落ちた。
馬を駆った二人の眼前に広がる光景は、既に手遅れに見えた。
サラドワに唯一流れる農業用の小さな川は、少し離れている。村の男達――いや、女や年寄りも――全員が列を成し、川の水を必死の形相で回していた。
すぐさま列に加わったアゼネフをよそに、ナシュレンは村民の一人に詰め寄る。
「この家の者は?!」
「分からんが姿は見えん!多分、まだ中だ!!」
「全員か?!子供も二人いたはずだ!」
思わず顔を向けたアゼネフの視線の先、ナシュレンは木桶をひったくると、頭からざぶりと水を被った。全身を濡らしたまま、駆けながらアゼネフに叫ぶ。
「俺に何かあったら父上に!」
アゼネフが止める間もなく、豪炎と黒煙が立ち込める家屋に、ナシュレンは猛然と飛び込んでいった。
夕暮れが村に茜を差す頃には、炎はようやく消され、家屋の取り壊しが始まっていた。まだ依然として熱を帯びた木材を前に、村民達は悪戦苦闘している。
サラドワが寒村だった事は、皮肉にも唯一の救いだった。隣接する家屋がなかったお陰で、全焼は一軒だけで済んでいる。
「ご無事で何よりです」
解体が進む家屋の前、独り膝を抱えるナシュレンへと、アゼネフは近づいた。煤にまみれた九席の息子の眼は、集まって涙に暮れる村の女達へと向けられている。
「…喜べるものか」
ナシュレンは頭を垂れた。アゼネフはただ黙って静かに、片膝を付く。
「…好きで来た村じゃない。喧嘩する相手も、引っ掛けたくなる女もいない。毎日が退屈で…ここには何もない。
何もないから、分かったんだ…。俺にも、…何もない。俺は何も出来ないんだ」
女達の慟哭を耳にしたナシュレンの肩が、小刻みに震える。
「せめて救いたかった……でも…また、…何も…」
ナシュレンが踏み込んだ燃え盛る家の居間で、家人と思われる男女は既に事切れていた。
炎でも煙でもなく、互いの胸を短刀で刺し違えて。
「この家の夫婦の畑は、去年から不作が続いていました。…このままでは冬を越せないと、…恐らくは二人で」
淡々と続けられるアゼネフの言葉に、ナシュレンは俯いたまま、嗚咽を噛み殺した。
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