来訪者の力
改めて言及するまでもなく、ダズナルフは歴戦の老将である。
北限の貧国であったデルヴァンが重ねてきた数多の戦を、ひいてはこれまでの苦難の歴史を人々が語る時、彼の名は少なからず逸話に現れる。
とは言え、ダズナルフほどの猛将でも、その戦歴は華々しい勝ち戦ばかりではない。
撤退を余儀なくされた亡国との戦線もあれば、大挙した魔物に苦汁を舐めさせられた戦いもある。
また、苛烈な戦歴は、伴って彼の傷を増やしていた。人質を取った野盗の騙し討ちでは全身に五本の矢を突き立て、北トロールとの二度目の激突では右肩と下顎を粉砕されている。
だが、何度となく敗北を喫しても、幾つもの傷を負っても、ダズナルフはただの一度として、大地に膝を付いた事はない。
不撓不屈を背中で語る名将は、民衆から絶大な人気と支持を得ていた。
そしてまだ幼かったザラーネフもまた、そんな逞しく輝く様な背中に憧れたものだった。
がらん、と大きな音が所蔵庫に響いた。次いで、どさりという音も。
「大叔父殿!お気を…どうかお気を確かに!!」
ザラーネフが狼狽するのも無理はない。
前者はダズナルフが手にしていた兜を取り落とした音。後者は彼が呆然と片膝を石畳に付いた音だった。
「終わりじゃ…全てが終わってしもうた…」
「な、何を弱気な…お止め下さい、まだ我々は戦ってもいないのですよ?!」
気丈な言葉を並べ立てたザラーネフだったが、その顔を滝の様に冷や汗が流れ続けている。
「戦うなど無理に決まっておろう。…そもそもが理解を得る事さえ難儀な相手よ」
長く深い溜め息をダズナルフが吐く。傍らに屈むザラーネフは、老将が魂まで吐き出してしまわないかと気が気でない。
「そ…それでも、話してみなければ分かりません。大叔母様とて、一切の聞く耳を持たぬわけではありますまい」
「…本当に、心の底から、そう思うか?」
ダズナルフに哀愁を帯びた双眸を向けられ、ザラーネフは、ぐむうとおかしな音を立てる。
「…それでも俺は…信じたいのです…!!」
「…あの…失礼致します…」
狼狽し続ける十将に、報告した従臣がおずおずと口を挟む。
「こうしている今も、アーレヴィー様は来賓室でお待ちいただいております。事情は分かりませんが、あまり長く待たせてしまうと却って」
「それもそうだ馬鹿者!早く言え!!」
「ら、来賓室来賓室…どっちじゃ?!どう行けば良い?!」
放たれた矢の様な速さで、ダズナルフとザラーネフは所蔵庫を後にした。
ザラーネフは、部屋の設えや調度品に一切の頓着がない。家臣達に購入や支度の全てを任せている。
家臣も彼の意図を汲み、デルヴァン十将という高位の役職に相応しく、それでいて華美過ぎない内装に注力している。
つまりは割と控えめに抑えられた部屋の中でも、来賓室はそれなりに高価で確かな調度品が並んでいた。
良く磨き上げられた年代物のソファーに、アーレヴィー公爵婦人は静かに座っていた。
余計な皺ひとつない濃紺色のドレス。三連の小さな宝石をあしらった首飾り。後頭部で綺麗にまとめられた白髪。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手を膝の上で重ね置いた佇まいは、来賓室を埋めるどの調度品よりも、圧倒的な気品と威厳に満ちている。
肩を狭めたまま下を向くダズナルフと、二人を交互に見やるザラーネフが、来賓用のテーブルを挟んで向かいにいた。
部屋に入るなり、渾身の流暢さで遠路の労をねぎらったダズナルフだったが、アーレヴィーは何の反応も示さなかった。
ぎこちなさを必死に隠して歩く夫にも、その後を努めて堂々と続く甥にも、首さえ回さない。
「し…しかしあれだの、コルベーリほど離れておると、我が領ともまた天候が変わるものよの。向こうでは厚い雲が出張っておったが、こちらは快晴…たまには足を運んでみるものじゃ。改めてデルヴァンの広さを実感するわい」
満面の笑みで滔々と話すダズナルフの心中を察するほどに、ザラーネフは締め付けられた様な痛みを胃に覚えた。
「それにしても…お前が転移門まで使って、わずかな侍従のみとここを訪れるとは思わなんだ。…まぁ確かに、ザラーネフともしばらく顔を合わせておらんかったからの。ほれ、この通り、我らが甥は息災であったぞ」
そうダズナルフがにこやかに続けたのが最後だった。
今に至るまで、アーレヴィーは言葉ひとつ、わずかな所作もなく、まるで自身もこの部家の調度品であるかの様に、ただただ静かに座っている。
そして時間が重なっていくほど、彼女がもたらしている沈黙と圧は、凄まじい重さを伴って二人にのし掛かっていた。
どれほど時が経っただろうか。悠久とも思われた静寂が遂に破られる。
「ザラーネフ」
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