3-5

 しかし――さて、一体どのように手をつけたものか。

 何事もなく茶会が終わり、レウィシアも領主としての仕事に戻った今、フィリカは頭上に広がる青空を見上げて息を吐いた。

 どこまでも青く澄み渡った空は美しく、雲の一つも見当たらない。


 周囲から聞こえてくる人々の声や行き交う馬車の音も賑やかで、シュテルメアという町が賑わっていることを今日も示している。

 しかし、レウィシアの屋敷を出て町に出てきたフィリカの心は、賑やかさも空の美しさも素直に楽しむのが難しい状況にあった。


「……ああは言ったけど、どうしたらいいかしら……」


 胸の奥に灯った決意に濁りはない。

 レウィシアへ向かって告げた言葉も嘘ではない。

 任せてほしいと宣言した以上、成果をあげてみせるのだと心の底から思っているが――結果を出すために必要な情報がいまだに不足しているという現実的な問題が横たわっている。


「とりあえず、調理して試作品を作るためにも、ヒメアマアジオウゴンクラゲは確保しないといけないから、外に出てきたけど……」


 呟きながら、視線を空から周囲へ向ける。

 以前、港を歩いたときのように、シュテルメアの町は大勢の人々で賑わっている。しかし、肌を撫でる空気には変わらず憂いが入り混じっていた。

 まだうっすら感じ取れる程度の憂いだが、以前よりも強まっているようにも感じられる。ヒメアマアジオウゴンクラゲの問題が長引けば長引くほど憂いは強まっていき、いつかは町全体を呑み込むだろう。

 そうなる前に解決策を見つけ出せればいいのだが――。


「……ううん、駄目ね。弱気になってたら、上手くいくものも上手くいかなくなっちゃう」


 己へ言い聞かせ、ぱんと両手で両頬を挟むように叩いた。

 乾いた音が鳴り響き、衝撃とかすかな痛みがフィリカの全身に広がる。

 少々ヒリヒリした感覚もするが、先ほどまであった靄がかっていた気持ちや憂鬱な気分が遠ざかり、普段のフィリカの調子が戻ってきつつあった。


 まずはヒメアマアジオウゴンクラゲの確保。

 味はレウィ様のおかげで確認できているから、あの味に合いそうな食材の調達。

 十分な量のヒメアマアジオウゴンクラゲとその他の食材を確保できたら、本格的に試作品の調理を始めよう。

 頭の中で行動の優先順位をつけ、予定を立て、一人で頷く。


 そうと決まれば、最初に向かうのは港だ。漁から戻ってきた船がないか確認して、もし漁から戻ってきていなかったらしばらく待たせてもらおう。漁から戻ってきた船があったら、ヒメアマアジオウゴンクラゲを譲ってもらって――。


「お? この間の……ベルテロッティ様と親しげだった嬢ちゃんか?」


 ふいに、そんな声が聞こえた。

 港へ向けて踏み出そうとしていた足が止まる。

 声が聞こえた方向へ目を向ければ、以前、話を聞かせてくれた漁師の男性がこちらを見ている。

 あの日は複数人の漁師と出会ったが、今目の前にいる男性の顔は特にはっきり覚えている。最後に言葉を交わした漁師。乗組員とともに、中型船に乗っていた船長だ。


 少ししか言葉を交わしていないが、あの日、話を聞いた漁師たちの中では、もっとも長く話を聞いた相手でもある。

 見知った――と表現するには過ごした時間が浅いが、もっとも長く話を聞いた相手と早々に出会えたというのは運がいい。


「こんにちは。以前はお世話になりました。……あのときは詳しい正体をお伝えしておりませんでしたね。さぞ驚かれたことでしょう。申し訳ありませんでした」


 そういって、フィリカは深々と頭を下げた。

 あのときは己の身分を詳細に明かさず、ロムレア領から来たとしか口にしなかった。

 そうしたほうが、より自然な意見を聞けるだろうと考えたからだが――結果的に騙すような状態になってしまっていた。レウィシアと話す姿を見たときは、さぞ驚いたことだろう。


 まさかフィリカが頭を下げるとは思っていなかったのか、船長が一瞬だけ目を見開いたような気配を感じた。

 ゆっくりとした動きで頭を上げると、目を丸くした船長と目が合った。

 少しの空白を置いたのち、船長が少々居心地が悪そうに頭をかき、フィリカからわずかに視線をそらす。


「いや……こっちこそ悪かった。てっきり余所の国から観光に来た嬢ちゃんとばかり思ってたからな……ああいや、思っていた、ので。まさかベルテロッティ様と関係がある嬢ちゃん……じゃねぇ、ご令嬢だとは思っておらず……」


 やや乱暴な言葉遣いと、やや丁寧な言葉遣いの間で何度も往復する様子は、彼がこういった言葉遣いに不慣れであることを物語っている。

 自分よりも年上の相手だが、その様子が少しだけ微笑ましいものにも見え、フィリカの口元がかすかに緩んだ。


「そちらが話しやすいように話してくださって構いませんよ。楽にしてくださいな」


 そういってから、フィリカは胸に手を当て、改めて名乗る。


「改めて……わたしはフィリカ・ブルーエルフィンと申します。レウィシア・ベルテロッティ閣下の婚約者としてこの地に参った者です。以前はヒメアマアジオウゴンクラゲについてのお話を聞かせてくれて、ありがとうございました」

「……別に……こっちこそ、話を聞いてくれてありがとな。ちょいと気が滅入ってきてたから、他所の人に話を聞いてもらえて少し気が楽になったわ。貴族のご令嬢に愚痴を聞かせちまったのは悪いけどよ」

「いえいえ。どうかお気になさらないでくださいませ。わたしも、悩める民のそのままの声を聞けてとても嬉しかったですから」


 頭をもう一度乱暴にかき、船長が少しばかり苦笑を浮かべる。

 フィリカはフィリカで、何も気にしないでほしいという思いを込め、穏やかな笑みを浮かべる。

 船長はフィリカの表情を目にした瞬間、わずかに目を見開き、すぐにまた苦く笑ったあと、口を開く。


「……そういってもらえっと、ちょっと気が楽になるからありがたいわ」

「ふふ、全く気にしておりませんので……ご安心を。……ところで、船長様はここで何を? 本日の漁からお戻りになられたところなのでしょうか」


 言いながら、フィリカは横目で改めて周囲の景色を見た。

 ここは港ではなく、港に続く道の途中。空気に混じった潮の香りは感じるが、海の景色はまだ少し遠い。もちろん船も傍にはなく、漁に関連するものも見当たらない。

 漁から戻ってきたところなのか、それともこれから漁に出るところなのか――疑問に思いながら問いかけると、船長は短く相槌の声をあげてから港に続く道の先へ目を向けた。


「嬢ちゃん……あー、いや、フィリカ様もご存知のように、今はヒメアマアジオウゴンクラゲの被害が大きいだろ。今回も大量に網にかかってたから、ヒメアマアジオウゴンクラゲと獲れた魚介類を分けて入れるための箱がいっぱいになっちまってな。追加を取りに来たんだよ」


 なるほど。だから船がある港ではなく、ここにいたのか。

 追加の箱を取りに来たということは、この近くに船長の自宅か――あるいは漁師たちが使う道具を置いてある倉庫や集会場のような施設があるのだろうか。

 考えながら、フィリカは思考を巡らせる。


 ヒメアマアジオウゴンクラゲを分ける箱を取りに来たということは、漁から戻ってきている。

 元々用意されていた箱に入り切らないほどヒメアマアジオウゴンクラゲが網にかかっていたのなら、かなりの数が網に絡んでいることが予想される。

 そして、自分は今、試作品を作るためにヒメアマアジオウゴンクラゲを求めている。

 自然とフィリカの唇が弧を描く。


「すみません、少々お願いしたいことがあるのですが……よろしいですか?」

「あ? まあ、変なことじゃなけりゃいいが……」

「妙なことをお願いする気はありませんよ。とっても簡単なことですので」


 そう前置きをして、ぱちんと音をたてて胸の前で両手を合わせる。

 満面の笑みで告げるのは、きっと互いにメリットにしかならない提案だ。


「今回、網にかかっていたヒメアマアジオウゴンクラゲのうち、一箱分か――あるいは全て、わたしに分けてくださいませんか?」


 花が咲いたかのような笑顔で告げられた言葉に、船長が目を丸くしたのは言うまでもない。

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