暴竜夫妻は世界を食べたい
神無月もなか
第一話
1-1
雷が落ちたかのような轟音が鳴り響き、びりびりと空気が震える。
場に満ちている空気には鉄臭さが混じっており、鼻から息を吸い込むたび、嫌な臭いが伝わってくる。
町に続く街道の途中。人の手が入り、行き来がしやすいよう整えられ、普段は多くの馬車や旅人が利用しているはずの道は今、戦場という言葉が似合いそうなほどに荒れ果てていた。
周囲にはその臭いの原因である灰色の剛毛に覆われた猪に近い姿をした魔獣の死骸が転がっており、赤黒い血液が地面に広がっている。一匹二匹ではなく、三匹、四匹――それ以上の数のオオイワイノシシが事切れた姿で横たわり、緊迫した空気を作り出していた。
「来るぞ! 第二部隊、オオイワイノシシの突撃に備えろ! 第一部隊は攻撃準備にかかれ! 突撃後の隙をつくぞ! お嬢様が来るまで持ちこたえるんだ!」
「はい!」
戦場と化したこの場に立つ者のうち、青い花の紋章が描かれたマントを身に着けた壮年の騎士団長が叫んだ。
彼の声に反応し、同じように青い花の紋章を抱く騎士たちが答える。騎士団長の指示を受けた騎士たちのうち、第二部隊に所属する者が一斉に前へ出て魔力の障壁を作り出し、反対に前へ出ていた第一部隊の騎士たちが第二部隊の後ろに下がり、ある者は剣を構え直し、ある者はいつでも魔法を放てるよう構える。
オオイワイノシシの群れと対峙するのは、青い花の騎士団だけではない。何の紋章も抱かない剣士や魔術師たち――いわゆる傭兵と呼ばれる者たちもおり、思い思いの武器を手にし、オオイワイノシシの群れと向き合っていた。
「ギィィ――!」
オオイワイノシシが耳障りな鳴き声をあげ、一斉にこちらへ突撃してきた。
前に出た第二部隊が作り上げた障壁がオオイワイノシシの群れの巨体と衝撃を受け止める。だが、オオイワイノシシたちは障壁に激突した際の痛みなど気にせず、障壁を破ろうとするかのように繰り返し何度も突撃してきた。
「ッ団長! 突撃の衝撃が大きすぎます! 今のところは耐えれていますが、あまりにも長引いたら突破されるおそれが……!」
障壁を維持する第二部隊の部隊員の一人が声をあげ、騎士団長の表情に浮かぶ焦りが濃くなる。
人間も魔獣も、皆身体のどこかに傷を負い、何名かは地に伏している。
いつ自分も地に伏している仲間たちの一人になってもおかしくはない――じりじりと押されたまま、好転する気配のない現状に、騎士団長は強く歯噛みした。
「くそっ……」
騎士団と傭兵の混合部隊の背後には、今回オオイワイノシシの襲撃を受けている町であるラエティアを守る防壁と門がある。騎士団や傭兵たちが出てくる前からオオイワイノシシの突撃を受けていた防壁や門は傷ついており、今、眼前にいるオオイワイノシシたちの攻撃を受け止めきることはできないだろう。
「なんとか、お嬢様が来るまでは……!」
騎士団長の脳裏に、この場を簡単にひっくり返す実力を持つ人物の背中が浮かぶ。
本来であれば自分たちが守るべき相手を待つなんて、騎士として許されないことだ。
だが、あの圧倒的な力をどうしても待ちたくなってしまう。どれだけ困難に満ちた状況でも、魔獣に押しつぶされそうな絶望が蔓延る状況でも、簡単に覆して勝利へと導いてくれるあの力が――。
「みんな! 防壁から離れて!」
天雷のような大声が空気を震わせ、場にいる全員の鼓膜を刺激する。
騎士団長がはっと両目を見開き、戦場に立つ騎士と傭兵たち全員へ一時的に防壁周辺から退避するよう指示を出した。
その直後。
ごぅ――!
空気を裂く音を奏でながら、大きな黒い影がオオイワイノシシの群れの後方から放たれた。
突然出現したその影は、まだ息のあるオオイワイノシシをなぎ倒しながら防壁へ叩きつけられる。衝撃で防壁の一部が崩れ、がらがらと耳障りな音をたてながら散らばった。
防壁に叩きつけられたのは灰色の剛毛が特徴的な魔獣――すでに事切れたオオイワイノシシだ。
赤黒い血液を周囲に散らしながら横たわっているそれを多くの騎士や傭兵たちがぎょっとした目で見つめる中、血なまぐさい戦場には似合わない少女の声が響く。
「みんな、遅くなってごめんなさい! 巻き込まれた人はいない? 大丈夫?」
そういいながら騎士と傭兵たちへ駆け寄ってきた姿を目にした瞬間、騎士団長は己の口元が緩みそうになるのを感じた。
急いで気持ちを引き締め、騎士団長は声が聞こえた方角へ目を向けて返事をする。
「お嬢様! 皆無事です! 先ほどのオオイワイノシシはフィリカ様の一撃で絶命したかと思われますが――」
「確認して。まだ息があったら、背後から攻撃を受けるだなんてことが起きてしまうかもしれないから。絶命してなかったらとどめを刺して。まだ傷がそれほどひどくない人たちは、わたしと一緒に残りのオオイワイノシシの討伐に力を入れて!」
騎士団長が目を向けた先にいるのは、馬に乗った一人の令嬢だ。
腰の辺りまで伸ばされたウェーブがかった白髪は風が吹くたびに柔らかく揺れ、騎士や傭兵たちを見つめる目は見る角度によって複数の色へ移り変わる、特殊な色に染まっている。
白と青を基調としたドレスの上から騎士たちが身につけている篭手や足甲を装着し、腰に剣を差した状態で馬にまたがっている姿は、物語で描かれる戦乙女のようだ。
彼女は――ブルーエルフィン辺境伯の令嬢、フィリカ・ブルーエルフィンは凛とした声でその場にいる騎士たちへ指示を出し、すぐに残っているオオイワイノシシの群れへ向かっていった。
勇敢さと美しさ、両方を持つ彼女の姿は苦戦を強いられていた戦場に差し込んだ光のようで――先ほどまで騎士団長の胸の中に存在していた焦りなど、一瞬の間に消え去っていた。
「は、はい! おい、聞こえたな!? 傷が浅い奴はフィリカ様の下へ急げ! 残った者はオオイワイノシシが絶命したか確認しろ! まだ息がある可能性もゼロじゃない、十分に気をつけろ!」
「はい!」
騎士団長が大声で指示を出し、その声にすぐ返事がされる。
どんどん遠ざかっていく彼らの声を耳にしながら、フィリカは一人、好戦的な空気を感じさせる笑みを見せる。
頬に付着した返り血を指の腹で拭ってから、一切の恐怖も躊躇も感じさせない、堂々とした空気をまとわせてオオイワイノシシの群れへ向かっていく小さな背中を目にし、その場へ残された騎士たちの数人が小さな声で囁きあう。
「……本当にいつ見ても信じられないな……。あんなに華奢で小柄なお方なのに、巨大なオオイワイノシシを軽く吹っ飛ばすなんて……」
「ああ、本当に。大の大人でも苦労するのに、あんな軽々蹴り飛ばす……いや、投げ飛ばしたのか? どっちかわからないが、あんな簡単になぁ……」
戦場の空気を密やかに揺らすのは、どれもこれも信じられないと言いたげなものばかり。
一種の恐怖も入り混じっているように聞こえる言葉たちだが、風に乗ってそれらの言葉が耳に届いても、フィリカの心はざわつかずに凪いだままだ。
だって、フィリカは知っている。
彼らが囁く言葉が己を傷つけるためのものではないことをよく知っている。
戦場で囁かれる言葉は、どれも己を支えてくれるものだから。
「本当にすごいよな、お嬢様は。お嬢様が討伐に参加してくださるようになってから、討伐の死亡者数はゼロになったし」
「前はもっと死亡者が出てたのにな。さすがは――」
見習い騎士の一人が、フィリカが向かっていった方角へ目を向ける。
「我らがブルーエルフィン辺境伯家が誇る『狂竜姫』だな」
一欠片の恐怖も嫌悪もなく、ただひたすらに真っ直ぐな尊敬と憧憬を乗せて。
きらきらとした目と声を己よりも小さな背中に向けながら、見習い騎士たちは頷き合った。
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