第二話

2-1

 がたごとと音を立て、車輪が回る。

 ブルーエルフィン辺境伯家からベルテロッティ公爵家へ返事を送ってから数日、フィリカが公爵家の下へ顔合わせのために向かう日はトントン拍子に決まった。


 求婚状を受け取り、返事を送ってからは不安も強かった。けれど、顔合わせの日に向けて準備を進めるうちにその不安は少しずつ鳴りを潜めていき、今度はベルテロッティ公爵の実際の姿やレーシュティア領という未知の地に対する興味や好奇心、なんとかしてロムレア領で暮らす人々やブルーエルフィン家にメリットをもたらそうという使命感にも近い感情が芽生えていた。


 少しでも上手くやれるように。

 少しでもロムレア領やブルーエルフィン家に良い影響を与えられるように。

 婚約者との顔合わせにはあまりにも不釣り合いな決意と使命感を胸にレーシュティア領へ向かう馬車に揺られていたフィリカだったが、馬車の窓へ目を向けた。

 瞬間。

 眼前に広がった景色に、フィリカは己の両目が輝くのを感じた。


「わあ……!」


 透明なガラス越しに見えたのは、内陸に位置するロムレア領では目にできない景色だ。

 大地や草木が作り出す緑の景色の中に、広大な青が見える。太陽の光を反射して煌めいている海の上空では白い翼が特徴的な鳥が優雅に舞い踊っており、海面を滑るかのように多くの船が行き来しているのが見えた。

 馬車に取り付けられた窓を開いてわずかに身を乗り出せば、潮の香りがフィリカの鼻をくすぐった。


「お嬢様! 危ないのでおやめください!」

「あっ……ごめんなさい、メル。景色をもっとよく見たくなっちゃって」


 フィリカの突然の行動に驚き、同乗していたメイドがぎょっとした声をあげる。

 顔を真っ青にしている彼女へ短く謝罪の言葉を告げると、フィリカは窓から身を離して座席へ腰を下ろした。

 同行してくれているメイド――幼い頃からフィリカの世話係として面倒を見てくれていたメイドの一人であるメルは、フィリカが窓際から離れたのを目にした瞬間、素早い動きで窓際に寄って開け放たれていた窓を素早く閉めた。

 じっとりとした視線を送ってくるメルへ笑顔を向けたあと、フィリカは再度窓の外へ目を向ける。


「当然のことだけど、ロムレアとは全然雰囲気が違うのね。海なんて久しぶりに見た」

「ロムレア領は内陸にありますからね。対するレーシュティア領は海に近い場所に位置していますし、これから向かうシュテルメアの町も港町ですので……これまでとは異なる景色を目にできるかと」


 景色は後でゆっくり眺められるんだから、今は危ないことをせずに大人しくしていてほしい。

 言葉の裏に込められた思いに、フィリカはまた苦笑を浮かべる。

 普段、魔獣討伐への参加というもっと危ないことをしているのにこれくらいで――と思ってもしまうが、絶対的な勝利を確信できる魔獣討伐とは異なり、日常の中に潜む危険には身構えてしまうらしい。


 これから出会うレウィシアがどのような人物かわからないが、似たような考え方をする人間だったら気をつけなくては――頭の片隅でそんなことを考えながら、フィリカは少しずつ近づいてくる海を見つめる。


「シュテルメアはどんな港町なの? ベルテロッティ閣下のお屋敷がある町だっていうのは聞いてるんだけど」

「そうですね……海からやってくる魔獣の被害が昔から多い町だと聞いたことがあります。ですが、貿易船が多く出入りしているので活気に満ちており、魔獣に対する対抗設備も充実しているそうです」


 つまり、ロムレア領でいうラエティアのような町か。

 貿易の窓口にもなっている町なら、レーシュティア領の中でもかなり重要な立ち位置にある町だろう。魔獣被害が多いという危険はあるが、重要な場所だからこそ魔獣が出現した際に即座に対応できるよう屋敷を置いているのもわかる。


 ――噂で聞いていたような乱暴者っていうイメージは、今のところあまり抱かないけど……。


 噂されているとおり、戦いを好み、戦いに明け暮れている狂人というよりは、きちんと領民を守るために魔獣被害がもっとも多い場所に拠点を置いている人という印象を受ける。

 もちろん、魔獣被害が多い場所に屋敷を置けば、簡単に戦場へ立てるからという理由だからという可能性もあるかもしれない。

 だが、魔獣からの襲撃に備えた設備も充実しているようだし――今のところはそのような印象を受けた。


「……まあ、じきにどんなお方なのか、すぐにわかるよね」


 はつり。フィリカが小さな声で呟いた直後。

 伝わってくる振動が先ほどよりも弱くなり、聞こえてくる車輪の音も少し前よりも静かなものに変化したのを感じた。

 窓の外に広がる景色も、自然溢れるものから柔らかな色合いの煉瓦が特徴的な町並みへと変化している。


 シュテルメアの町に入ったのだ――それを感じ、フィリカは胸を躍らせながら窓の向こう側を覗き込んだ。

 多くの貿易船が出入りするのだから、きっと活気に満ちた賑やかな町に違いない。

 大勢の人たちが行き交う、ラエティアの町に負けないくらいの――。


「……?」

「……お嬢様? どうされました?」


 眉間にわずかにシワを寄せ、窓ガラスに片手を添えて広がる景色を注視する。

 向かい側の席に座っているメルが怪訝そうな様子で声をかけてくるが、構わずに眼前の景色を観察を続けた。


 赤い煉瓦造りの町は確かに賑わっている。大通りでは多くの人々が行き交い、旅人や冒険者、傭兵らしき者の姿も多く見られた。営業している店もきちんと店舗を構えたものから出店まで豊富で、商売の中心地になっているだろうことが町の様子から予想できた。

 だが、どこか違和感がある。賑わっていて活気があるように見えるのに、どことなく影が落ちているようにも見える。町の人々は皆笑顔を浮かべているのに、その裏に憂いを抱えているようにも見えて――ちぐはぐな印象がフィリカに強い疑念を抱かせた。


「お嬢様……? 何か気になることでも……?」


 メルがもう一度怪訝そうな声色で呼びかけてくる。

 返事をせず、無言のままでじっと景色を見つめ続けていたフィリカだったが、やがてゆっくりと唇を開いた。


「……どこか適当な場所で馬車を止めて」

「え? で、ですが、公爵邸まではまだ距離が……」

「いいの。気になることがあるから、それを確かめたくて。……それに、閣下と結婚したらわたしはここに住むことになるんでしょう?」


 自分が暮らすことになる町と、そこで暮らしている人たちを自分自身の目で見てみたいの。

 フィリカがそう言葉を付け加えると、メルはそれ以上の言葉が出てこなくなってしまったらしい。くしゃりと物言いたげに表情を歪めるが、すぐに浅く息を吐いて苦く笑った。

 仕方ないなと言いたげなものへ、表情を切り替えて。


「……わかりました。お嬢様は一度こうだと決めたら簡単には変えてくれませんものね。それが人々の暮らしと関係していそうなことであればなおさら」

「ごめんなさい、わがままを言って。……でも、どうしても確かめたいの」

「わかりました。もし移動がつらくなったらすぐにおっしゃってくださいね」


 苦笑いを浮かべたままのメルがそういって、御者へ馬車を適当なところで止めるように指示を出す。

 その声を聞きながら、フィリカはまた改めて馬車から見える景色を己の視界に映した。

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