1-9
フィリカも過去に耳にしたことがある。
レーシュティア領。ドラグティア国の領土のうち、広大な地の一つ。海に接した領土であり、ロムレア領と同様に他国や魔獣の脅威にさらされやすい地であり――ロムレア領よりも多くの脅威にさらされている地だ。
というのも、レーシュティア領は陸だけでなく海からやってくる魔獣にも悩まされている。
陸続きで魔獣の襲撃や他国、他領の侵略に目を光らせなければならないロムレア領に対し、レーシュティアの地では陸地に生息する魔獣の脅威と海からやってくる魔獣の脅威、さらに他国や他領からの侵略の脅威、三つの脅威に目を光らせて食い止めなくてはならない。
そんな厳しい地を治める家門――ベルテロッティ公爵家から、自分へ、求婚状?
「……お父様は、ベルテロッティ公爵様と親交が?」
「脅威にさらされる地を任された家同士、魔獣や他国、他領の動きに関する情報をやり取りするためにある程度の親交はある。だが、特別親交が深いというほどではないはずだ」
父の言葉に耳を傾けながら、フィリカは封筒に指先を添える。
封筒はすでにペーパーナイフで開封されており、中身を簡単に取り出すことができた。
中に入っていた求婚状へ目を通せば、内容は父が口にしたとおり。ベルテロッティ家の現当主であるレウィシア・ベルテロッティからブルーエルフィン辺境伯家のフィリカ・ブルーエルフィンへ婚約を申し込みたい旨が記されていた。
「ベルテロッティ閣下が……わたしに……」
彼の名はフィリカも何度か耳にしたことがある。
レウィシア・ベルテロッティ公爵。若くしてベルテロッティ公爵家の当主となり、レーシュティア領を多くの危険から守り続けている凄腕の剣士。
そして――フィリカと同じく、人々に害をなすとされている危険な竜『暴竜』の加護を受けた人。その影響で幼い頃から剣を手放さずに戦場を駆け回り、手にした剣に人間や魔獣の血を吸わせ続けてきた狂人。
暴竜公――あるいは好血公。
そのような二つ名で、多くの子息令嬢たちの間で囁かれていたはずだ。
だが、ベルテロッティ公爵と出会った記憶は、フィリカの中に存在しない。記憶にあるのは彼に関する真偽不明の噂ばかりで、彼の姿を直接目にしたことがなければ言葉を交わした記憶もない。完全に初対面のはずだ。
もちろん、それはベルテロッティ公爵も同じであるはず。だというのに、公爵は一度も出会ったことのない令嬢に婚約を申し込んできた――何故?
「……お父様は、この縁談……どうお思いですか?」
持ち込まれた縁談自体はそこまで悪いものではないように思う。初対面という非常に大きな不安要素と疑問点はあるが、相手は名のある公爵家。ある程度の親交もあり、互いに魔獣の襲撃や他国からの侵略という危険と戦い続けてきたという共通点もある。戦うことに理解がない家よりも、戦うことに理解がある家同士で結びつきを強めたほうが互いにメリットがあるといえるだろう。
受ける理由は大きく、断る理由は薄い――けれど、ブルーエルフィン家の現当主はフィリカではなく父だ。父はどのように思っているのか、当主としての判断を聞いておきたい。
娘からの問いに父はほんの一瞬だけ険しい表情を見せたが、すぐに浅く息を吐き、答えを口にした。
「……悪い話ではないと考えている。ベルテロッティ公爵家は強い力をもつ家門だ。婚姻を通して公爵家と結びつくことにより、ブルーエルフィン家の力は大きく高まる。防衛面でも協力しあえることが増えるかもしれない。我が家が得るメリットは大きい」
「……なるほど」
「だが、これはお前の今後の人生に関わることだ。フィリカ、お前が納得できる選択をしてほしい」
そういった父の表情は険しく、とても難しそうなものだった。
政略結婚など珍しい話ではない。貴族たちの間では恋愛結婚のほうが珍しい話で、フィリカの意志を完全に無視して婚約するよう命じることもできるはずだ。
しかし、父はそうせずにフィリカの意志も尋ね、場合によってはそれを優先しようとしている。
ブルーエルフィン辺境伯家の当主としての判断も見せながら、同時に一人の父親としての優しさもフィリカへ向けてきていて――それがありがたく、くすぐったくて仕方ない。
けれど、フィリカの心はすでに決まった。
「気遣ってくれてありがとうございます、お父様。ですが……お父様も我が家にメリットがあるとお考えなら、わたしはこの求婚を受けようと思っています」
フィリカが己の答えを口に出した瞬間、父がますます表情を険しくさせた。
物言いたげな、どこか鋭さも織り交ぜた父の視線を受けながら、フィリカは苦笑を浮かべる。
「……そのような顔をしないでください。家のために無理をしているというわけではありませんから」
「……本当か?」
「はい」
疑わしげな父へ頷き、フィリカは言葉を続ける。
「わたしはベルテロッティ閣下とお会いしたことはありませんが……公爵家のことは耳にしたことがあります。我が家と同じように魔獣や外部からの脅威と戦い続けている家で、閣下はわたしのように危険性が高い竜の加護を受けているお方だと」
耳にしたあの噂もどこまでが真実でどこまでが脚色された話なのか、フィリカにはわからない。
噂どおりの人物なのかもしれないし、噂とは異なる人物なのかもしれない。
噂しか知らない、顔を知らない相手と将来の約束をするのは不安が多いが――そうすることで少しでもメリットを得られるのなら、領民たちの安全を守ることに繋がる可能性があるのなら、首を横に振る理由はない。
「わたしもお父様と似たようなことを考えました。不安が全くないと言うと嘘になりますが……自分なりに考えて、納得して、婚姻を結ぼうと思いました。ですので……このお話、お受けしようと思います」
望まずに婚姻を結ぶと判断したのではなく、自分も同じようなことを考え、納得したうえで選んだのだ――と。
その意志も交えて答えを口に出せば、父はまた一瞬だけくしゃりと表情を歪める。
だが、即座に深く息を吐き出すと、彼はフィリカを見つめたまま姿勢を正した。
「……わかった。お前がそう決めたのなら、お前の選択を尊重しよう」
「ありがとうございます、お父様」
「ベルテロッティ閣下には求婚を受けると返事をしておく。お前はお前で顔合わせの日に向けて準備をしておくといい」
「そうさせていただきます。本当に感謝いたします、お父様」
改めて感謝の言葉を口にし、フィリカは深々と頭を下げた。
数秒ほどその姿勢を維持したのち、ゆったりとした動作で下げていた頭をあげれば、困ったような苦笑を浮かべた父と目が合う。
「……まだ婚約の段階だ。そんなに気負わなくてもいい。もし、閣下の下へ嫁ぐのは苦しいと判断したら、そのときは逃げ帰ってこい。婚約破棄をするなり何なり、私がなんとかしてやる」
「ふふ……ありがとうございます、お父様。もしどうしてもつらいと感じたら、そのときは考えてみます」
相手は公爵家、対するこちらは辺境伯家。身分はあちらのほうが上だから、一度結んだ婚約をこちらから破棄するのは難しい――否、不可能だろう。
だから、この婚約を一度結んでしまえば、後々で合わない、つらいと感じるようなことが起きてもよっぽどの理由がなければフィリカがレウィシアの下を離れることはできないだろう。
もちろん、そのようなことが起きないのが一番だが。
――上手くいってくれるといいのだけれど。
執務室の窓から空を見上げ、フィリカは小さく息を吐く。
どうか、レウィシア・ベルテロッティ閣下が少しでも良い人でありますように。
どこまでも広がる美しい青空とは対照的に、フィリカの心の内には広い曇天が広がっていた。
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