1-8
――よかった。今回の魔獣被害は想像していたよりも少なく抑えられたみたい。
父を経由し、使用人から手渡された報告書に目を通しながら、フィリカは安堵の息をついた。
ラエティアの町がオオイワイノシシの襲撃を受けた日から夜明けを迎え、幾度かの朝と夜を繰り返した頃。襲撃の日から数日が経過したラエティアは、打撃を受けた防壁や門の修繕が滞りなく進んでおり、大部分の修繕が完了したとの報告がブルーエルフィン家に入ってきた。
……ラエティアを守る防壁のうち、フィリカがオオイワイノシシをぶつけて壊した防壁だけは破損がひどく、修繕に時間がかかってしまっているようだが。焦っていたとはいえ、ラエティアで暮らしている領民たちには悪いことをしてしまった。
「……感情と行動のコントロールは、もうちょっとできるようになっておいたほうがよさそう……」
一人で苦く笑いながら、フィリカは机に報告書を置き、ティーカップを手に取った。
幼い頃からずっと過ごしている自室は、フィリカの好きなもので満たされている。柔らかな色合いの木材で作られた細やかな装飾が施されたテーブルに椅子、いくつかのぬいぐるみが置かれたソファー、たくさんの本が並べられた本棚――自分の好きなものや馴染みがあるもので満たされたこの空間にいると、自然と気分が緩む。
暖かい紅茶の芳醇な香りと程よい渋みを楽しんだあと、ティーカップをソーサーの上にかちゃりと音を立てて置いた。
「けど、ラエティアが無事に復興できそうでよかった。またあとでみんなの様子を確認して、防壁の修繕も手伝いに行かなくちゃ」
ラエティアはロムレア領を代表する大きな町の一つ。
多くの旅人が出入りすることから『旅人の町』とも呼ばれ、旅人相手に商売をする行商人や、旅人たちを運ぶ辻馬車も多く出入りする。ラエティアがオオイワイノシシの群れによって大打撃を受けたら、結構な被害が出ていたに違いない。
少しでも早くラエティアが本来の機能を取り戻せるよう、支援しないと――。
今後の予定を頭の片隅に書き留めながらもう一度安堵の息をついたそのとき、部屋の扉をノックする音が響いた。
「入りなさい」
「失礼いたします、お嬢様」
入室の許可を出すと、すかさず言葉が返り、扉が開かれる。
扉の向こう側に立っていたのは、ブルーエルフィン家の屋敷で長く働いてくれているメイド長だ。フィリカが幼い頃から身の回りの世話をしてくれているメイドの一人で、母を亡くしたフィリカにとって母のような存在である。
はたりと一度だけ瞬きをし、フィリカは彼女を見る。
「ミレット。どうしたの?」
「旦那様がお呼びです。なんでも、お嬢様にとても大事なお話があるそうです」
「わたしに……大事な話?」
思考を巡らせてみるが、ぱっと思い当たるようなことは思い浮かばない。
一瞬、ラエティアの討伐戦で町を守る防壁を壊してしまったことだろうかとも思ったが、もしそのことで叱られるのなら父の下へ報告が入った時点でそうしていたはずだ。
しかし、報告書は何事もなくフィリカの手元へ回ってきた――となると、防壁のことではない可能性が高い。
「……なんだろう……ミレットは心当たり、ある?」
「いえ……。私もすぐには思い当たりませんので……。ですが、とても大事で、今すぐに話しておきたいことなのだとおっしゃっておりました」
父が今すぐに話しておきたいようなこと?
ミレットが口にした一言を耳にし、フィリカは明確に顔をしかめた。
フィリカの父であるブルーエルフィン辺境伯は、娘へ伝えなければならない情報があるときは食事の時間やお茶の時間に話すことが多い。
逆に言えば、それ以外の時間に情報を伝える――それも、今すぐに話しておきたいと言い出すのは緊急性が高い情報である可能性が高いといえる。
一体何が起きたのだろう。領地のどこかに何か起きたか、魔獣調査でまずい情報が出てきたか。明確な理由はわからないが、とにかく急いだほうがいいのは確かだ。
優雅な動きで立ち上がり、フィリカはミレットへ柔らかな笑みを見せた。
「わかった。ありがとう、ミレット。お父様のところへ行ってみるわ」
「いえ、これが私の仕事ですので。カップのほうはお下げしておきますね」
笑顔でそういったミレットへ頷くと、フィリカは優雅な足取りで部屋を出た。
最初は穏やかな足取りで、だんだん足早に。はしたないと頭では理解しつつも、父が待つ執務室に到着する頃にはすっかり駆け足になってしまっていた。
「お父様。フィリカです」
「入れ」
数回のノックののち、扉越しに声をかける。
すかさず返ってきた入室許可を聞き届けたのち、扉を開け、フィリカは執務室へ足を踏み入れた。
「急に呼びつけてすまないな、フィリカ」
「いえ。よほどお急ぎの用なのでしょう。ラエティアの報告書に目を通し終わったあとでしたから、何も問題ありません」
そう言葉を返し、フィリカは執務室に用意されている来客用のソファーへ腰を下ろした。
父も執務机から立ち上がり、一通の封筒を手に、フィリカの向かい側の席へと座る。
いつ見ても実年齢を読み取りにくい人だ。フィリカよりも長く生きているはずなのに、時の流れによる影響を受けていないかのように若い印象がある。短く整えられた髪やこちらの姿を映す目はフィリカと同じで、この人と血が繋がっているのだと実感するものがあった。
一回、二回。息を深く吸い込み、吐き出したあと、言葉を続ける。
「それで……お父様。お話とは一体何でしょうか」
フィリカが本題に入った瞬間、穏やかだった父の顔が真剣さで彩られた。
父は軽く咳払いをすると、執務机から持ち出してきた封筒をテーブルに置き、フィリカのほうへ滑らせるようにして差し出した。
「これは……?」
差し出された封筒を手に取り、観察する。
上等そうな封筒が使われている辺り、貴族家門からの手紙で間違いないだろう。
だが、封筒に押されている印章は見たことがない。獅子を紋章に抱く家門だなんて、フィリカの記憶には出てこない。
はたして、どこの家門からの手紙なのか――内心首を傾げるフィリカへ、父は静かな声色で答えを告げた。
「フィリカ。レーシュティアのベルテロッティ公爵家からお前へ求婚状が届いた」
父が告げた言葉に、一瞬、驚愕で何の言葉も出てこなくなった。
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