第五話
5-1
風が激しく鳴き、大粒の雨が絶えず降り注いでいる。
数分前まで広がっていたはずの青空はすっかり見えなくなり、濃い灰色の雲に覆われた曇天は見る者を不安にさせる禍々しい雰囲気を放っている。
つい先ほどまでの安定した天気から一変し、嵐の到来を思わせる天候。吹き荒れる風の影響を受けて海も荒れる中、フィリカはレウィシアのエスコートを受けて馬車から降りた。
「大丈夫か、フィリカ」
「はい。風が強いとは感じますが――飛ばされたりはしないので大丈夫ですよ。レウィ様」
少しの冗談を交えて返事を返し、フィリカは一度だけレウィシアへ笑顔を向ける。
その後は暗く荒れる海へと視線を向け、静かに唇を引き結んだ。
赤髪の騎士――ヘリオから『竜』と呼ばれる大型魔獣の出現報告を受け、互いに必要な準備をして馬車に飛び乗ったが、その間にこんなにも天候が変わるだなんて想定外だ。
少し前までは穏やかに広がっていたはずの海は暗く荒れ狂い、駆け抜けていく風に吹かれるままに海面を波立たせている。
フィリカとレウィシアの髪を乱す風はこうしている間にも容赦なく吹きつけ、ちょっとした物なら簡単に吹き飛ばしていく。
周囲に目を向ければ、港にはフィリカとレウィシア以外の人の姿だけでなく、置かれていたさまざまな物も片付けられている。船も波にさらわれないようしっかりと固定されており、人がいる痕跡を感じるが肝心の人間が一人も見当たらない、なんとも不気味な印象を受ける港へ姿を変えている。
フィリカが知っている賑やかさは、そこに一つも感じられない。
あるのはなんともいえない不気味さと寂しさ、そして独特の不気味さだけだ。
「騎士の皆様方は?」
雨除けとして身にまとった外套のフードをしっかりとかぶり、問う。
この雨風の中だ、じきにフードの存在を気にしている余裕なんて消えるだろうが、少しでも雨で体温を奪われないようにしておくのは重要だ。
あとに控えているのは、これまでフィリカもほとんど相手にしたことがない強大な魔獣との戦いなのだから。
「ヘリオたち騎士団には住民の避難をさせている。被害が港だけで済んだらいいが、どこまで広がるか読めないからな」
「この港付近は?」
ちら、とレウィシアが一瞬だけこちらに目を向ける。
「すでに避難が完了している」
「……なら、安心して戦いに集中できますね」
ここまで人の気配が薄いのだ。避難が完了している可能性は高いだろうと考えていたが、予想していたとおりのようだ。
よかった。もし避難が完了していなかったら、できるだけ港に被害がいかないよう気をつけながら立ち回る必要があっただろうが――これなら何も気にせずに暴れられる。
ちりん。握り拳で腰に差してきた愛剣の柄を軽く叩けば、柄に結ばれている鈴がかすかに音を奏でた。
「フィリカ。複数人での戦闘、あるいは少人数での戦闘経験は?」
愛剣の存在を確かめるフィリカの隣で、レウィシアは鞘から剣を抜いた。
刃と鞘が触れ合う涼やかな音が風雨の中に混じり、悪天候の戦場に立っているのだとフィリカに自覚させる。
ああ、今から自分はレーシュティアの地ではじめて剣を振るうのだ、と。
これまで目にしてきたものとは異なる魔獣と戦うことになるのだと。
現実を強く自覚させ、緊張感を与え、戦いへの歓喜を呼び起こさせる。
こういうとき、普段はどれだけ大人しく振る舞っていても自分は狂竜の加護を得ているのだと――戦いの中で生きる運命を背負って生まれてきた者なのだと改めて思う。
「騎士団や傭兵の方々とともに戦場に立った経験は何度か。はじめてお会いした日、レウィ様もご覧になったでしょう?」
だが、フィリカが経験している戦場では、前に立つのはほとんどフィリカ一人だけ。
守るべき人々を背後に隠して魔獣たちと戦ったことはあれど、隣に自分以外の誰かを置いて戦った経験は皆無に近い。
だって、それで攻撃に巻き込んでしまったら――自分は深く後悔する。
「ああ。だが、本人に一度確認しておくのは大事だろう? ともに戦場に立つ相手の実力を確認しておけば俺も安心して剣を振るえる。……しかし、なるほど。他者と戦場に立った経験自体はある。自信を持ってそのように答えるということは、よほど自信があると見た」
二人が言葉を交わすうちにも暗い海面が激しく波打ち、揺らぎ、渦を巻く。
見通せない海の中で、巨大な何かが泳いでいるのだと示すかのように。
「先に伝えておこう、フィリカ。俺のことは何も気にしなくていい」
海面がより強く、激しく渦を巻く。
渦の奥から何かがこちらへ近づいてきている気配を感じ、フィリカも鞘から愛剣を抜いた。
しゃりん、ちりん。鞘と刃がこすれる音と鈴の涼やかな音が荒れた空気の中に交じる。
そうしながら言葉の続きを求めてレウィシアへ視線を向ければ、レウィシアもこちらへ視線を向け、好戦的に唇の両端を持ち上げた。
「お前が本気を出しても、俺が巻き込まれることはないだろうからな」
直後。
大きな音と水しぶきをあげ、渦の中央から黒い影が勢いよく飛び出してきた。
反射的に片腕で顔を覆い、飛んできた海水がかからないようにする。
そうしながら、フィリカは海中から飛び出してきた影の主を鋭い目つきで見上げた。
曇天を背負って海中から空中に飛び出してきた影の主は、奇妙な姿をしていた。蛇を連想させる身体は細長く、伝承の中で語られる竜たちのように巨大な翼が背から生えている。細長い胴体から伸びる手足には鋭い爪が生えており、人間の身体など簡単に切り裂いてしまえそうだ。
こちらを見据える両目は怒りや狂気で赤く染まり、戦場や魔獣に慣れていない人間なら恐怖で動けなくなってしまいそうだ。
これが――通称『竜』と称される大型の水棲魔獣。
レーシュティア領、およびシュテルメアの町に忍び寄っていた災厄の姿か。
グオォオォオオォオ――!
上空で魔獣が鋭い牙を剥き出しにし、咆哮した。
雷鳴を思わせる声が天から降り注ぎ、ビリビリと肌を撫でる。
わずかに顔をしかめたフィリカの傍で、レウィシアが両目を爛々と一層強く輝かせる。
先ほどからずっと喜色を示しているが、魔獣の姿を目にしても変わらず、むしろ一層強く歓喜の色を滲ませる姿には一種の狂気を感じさせる。
が、レウィシアのそんな姿を目の当たりにしても――フィリカの心は恐怖に染まらず、変わらずに平常を保っていた。
「……来るぞ」
構えろ。
レウィシアが囁くような声量でそういった直後。
ごう、と。
ひときわ強く風が鳴り、フィリカの髪や衣服を強く揺らした。
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