5-2

 上空でこちらを睨みつけていた魔獣がわずかに身体をくねらせた次の瞬間、強風をまとって降下してくる。

 それを目視できたと思えば、瞬き一つの間にその姿はレウィシアの大きな背に遮られて見えなくなり、硬い物同士がぶつかり合う金属音が空気を強く震わせた。

 自分は今、レウィシアに庇われたのだと――魔獣が狙ったのはこちらだったのだと理解できたのはワンテンポ遅れてからだ。


 ぎちぎちと硬い物同士が擦れ合う音がする。

 背後にフィリカを庇い、突進してきた魔獣の一撃を受け止めたレウィシアはぎちぎちと牙と剣の刃が擦れる不快な音に耳を傾けながら、乱暴に剣を振り抜いて魔獣を弾き飛ばした。


 剣の刃が魔獣の口を切り裂いた手応えがレウィシアの手に伝わり、耳障りな――けれど、レウィシアにとっては甘美に聞こえる悲鳴を上げながら魔獣が後退する。

 どす黒い血が散ってレウィシアの衣服や頬を汚すが、当のレウィシアは笑みを崩さずに片手の甲で頬に付着した返り血を乱雑に拭った。


「……お手数をおかけして申し訳ありません、レウィ様。大丈夫ですか?」


 油断してはいけないとわかっていたはずなのに、レウィシアに庇わせてしまった申し訳なさ。

 一瞬の間に向けられた殺意や敵意に対応できなかった自分自身への情けなさ。

 そして、フィリカを庇ったことでレウィシアが傷を負ったのではないかという焦り――。

 さまざまな感情がフィリカの胸に押し寄せるが、それらを飲み込み、できるだけ冷静な声色で問う。


「何一つ問題はない。間に入るのが間に合ってよかった」


 つ、と。レウィシアがフィリカへわずかに視線を向ける。


「お前が早々に戦線離脱するようなことがあれば、きっと俺は深く後悔していただろうからな」


 そんな言葉とともに向けられた目は、とても柔らかな光を宿していた。

 フィリカの心臓がひときわ大きな音をたて、先ほどまでとは異なる理由で早鐘を打ちだす。

 

 こんな状況でそんなことを言わないでほしい。

 そんな優しい表情で勘違いしてしまいそうになることを言わないでほしい。

 ただでさえ目をそらしている想いがあって、レウィシアのちょっとした言動で勘違いをしてしまいそうなのに。


 深く深呼吸をし、意識をレウィシアから魔獣へと向ける。

 すでに一度庇われるという失態を演じているのだ、これ以上レウィシアの手を煩わせるわけにはいかない。

 これでもロムレア領を魔獣の脅威から守り続けていた者であり、狂竜の加護を得た者。戦闘に特化した加護を得た者なのだ、実力を疑われるような失態をこれ以上演じるわけにはいかない。


 意識を上空へ。暗い灰色の空を背負い、こちらへ敵意を向け続けている魔獣へ。

 そのまま数回ほど深呼吸を繰り返せば、動揺していたフィリカの心は落ち着きを取り戻し、眼前の敵へ固定される。

 フィリカの意識が魔獣へ向けられたのを感じ取り、レウィシアも再度上空へ目を向けた。


 ――しかし、上空からあまり降りてこないとなると厄介ね。


 心の中で呟き、小さく息を吐く。

 人間には翼がない。基本的に上空にいる魔獣を相手にするとなると、こちらが不利になる。


 魔力で翼を作る? いいや、この天気だ。下手に翼を作り出して飛ぼうものなら、吹き荒れる風に振り回されてこちらが海に叩き落される。

 魔法で叩き落とす? ……相手は魔獣と称されるほどに手強い相手だ。フィリカやレウィシアの魔法で地上に叩き落とせるかどうかわからない。


 ロムレア領では魔法の糸で拘束して相手を地上に引きずり下ろすこともあったが、あれはロムレア領に生息している魔獣相手だから可能だったことだ。魔獣相手だと引きずり下ろすどころか、あの魔法で拘束するのも難しいかもしれない。


「……どうやって上空から引きずり下ろすか……」


 思いついた案はあるが、それを実行すると周囲に注意を向けるのが難しくなってしまう。今は一人だけで戦場に立っているわけではないのだ、レウィシアを巻き込んでしまうおそれがある。

 どうする。どうすれば魔獣の首を取ることが――。


「フィリカ」


 ひたすら思考していた途中、ふと。

 レウィシアの声がする。


「周囲のことは気にするな。俺が全て引き受けよう」

「……レウィ様」

「だから――好きに暴れてこい」


 お前は『狂竜姫』なのだろう。

 力強い声とともに添えられた言葉はたった一言だけ。

 そこに含まれている意味や要求を読み取り、フィリカは一瞬だけ大きく目を見開き、すぐに口角を持ち上げる。


「……いいんですか? 本当に、わたしの好きなように暴れても」


 ふつり、ふつり。心の奥底から衝動が湧き上がってくる。

 心に乗せていた蓋が揺らぐのを感じる。きっと、今の自分の両目には爛とした好戦的な光が宿っているに違いない。

 問いかけながら、スカートに手を伸ばす。布地の下に感じる硬い感触を確かめ、フィリカは愛剣の柄を握る手に力を込めた。


「構わない。――あの日、ロムレアの地で見たお前の美しい姿をもう一度見せてくれ」


 返ってきた言葉を耳にした瞬間、スカートに触れていた手が迷いなく動いた。

 ばっと布地をたくし上げ、太ももに身に着けていた短剣を鞘から引き抜く。片手に長剣、もう片方の手に短剣を握り、フィリカは力強く港の地を蹴って跳び上がった。

 激しい風雨が全身に降り注ぎ、髪や身にまとう衣服や外套が水を含んで重たくなるが、これぐらいの重みはフィリカの動きを制限するものにはならない。


 本当に自由に動いても大丈夫なのかという不安も、少しあるけれど。

 レウィシアが任せてほしいと言うのであれば、彼の言葉と実力を信じるとしよう。

 何より――彼が望んでいるのは、『ブルーエルフィン辺境伯令嬢のフィリカ・ブルーエルフィン』ではなく『狂竜姫フィリカ・ブルーエルフィン』なのだから。


「――では、行ってまいります。レウィ様」


 何が起きてもよろしくお願いしますね。

 視線を向けたのも、言葉を向けたのも一瞬だけ。言葉を発したあとは頭上にいる魔獣を真っ直ぐに見上げ、片手に持った短剣を己の足元へ向けた。

 重力に逆らって跳び上がった身体が、重力に従って落下を始める。

 真っ黒い海へ向かって落ちていく中、フィリカは己の中に巡る魔力へ意識を向け、それが手を伝わって短剣へと巡る様子を思い描き――。


「構築」


 小さく呟くのに合わせて刃を振るえば、落下していく先に不可視の足場が作り出された。

 短剣を杖のかわりにした、魔力操作による足場の構築をとっさに行い、その上に着地する。そして、その足場を再度蹴って空中へ跳び上がり、何度も足場の構築を繰り返しながら上空へ逃げ続ける魔獣を追う。


 己よりもうんと小さく弱そうな生き物が空中を自在に移動し、迫ってくる様子は魔獣にとって警戒するものだったに違いない。現に、こちらを見下ろす魔獣の目の奥に確かな警戒や驚愕の色が宿っていた。

 だが、それを視認できるほど距離を詰めた今――相手が行動を起こすよりも早く、こちらが食らいつける。

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