5-3
片手に持った愛剣をしっかり握り、魔獣の片目めがけて力強く振るう。
瞬間、手に伝わってくる生物を斬り裂く手応えに思わず笑みが浮かぶ。
けれど、直後に魔獣が雷鳴じみた悲鳴をあげて暴れ狂い、尾が勢いよくフィリカの身体に叩きつけられた。
「ッ!」
衝撃がフィリカの全身に走り、肺から空気が吐き出される。
一瞬だけ呼吸が詰まり、息が吸えなくなる。その間にも尾を叩きつけられた身体は急速に重力に引っ張られ、荒れ狂う真っ黒い海へ落下していく。
足場を構築するのも間に合わない速度での落下だ。フィリカは自らの身体が海中へ落とされ、水の音とともに荒れる海水に包まれるのを覚悟して強く目を閉じた。
が。
ぶわり、と。
突如、吹き荒れる強風の向きが変わった。
想像していた海水の冷たさが全身を包むことはなく、かわりにほのかな暖かさを含んだ風がフィリカの全身を包み、優しく受け止める。
あと一歩で海に落ちるはずだった身体は冷たい海に落ちることなく、魔獣へ接近するために作り出した足場の上にそっと乗せられた。
今のは自然な風の動きではない、第三者による魔力操作によって引き起こされたものだ。
そして、それを実行できそうな者は――たった一人しかいない。
「……レウィ様」
「言っただろう。周囲のことは何も気にしなくていい、と」
小さな声で名を呼べば、即座に声が返る。
まだ暖かさを含んだ風が頬を撫で、背後にいたはずの気配がすぐ隣に感じられる。
横目でちらりと視線を向ければ、港に立っているはずのレウィシアが風を味方につけ、フィリカの隣で浮遊していた。
素早くレウィシアの足元へ短剣の切っ先を向け、彼のために足場を作り出してから、フィリカも座り込んだ状態から立ち上がる。
「しかし、なかなかに手こずっていそうだな。手助けは必要か?」
かつ、こつ。
レウィシアの靴がかすかな足音とともに足場を踏み、片手を軽く動かした。
その動作の直後、感じていた暖かさを含んだ風とかすかに感じる魔力が霧散し、感じられるのは吹き荒れる風雨のみとなる。
意味がないと理解しつつも顔に吹き付ける雨粒を拭い、フィリカは浅く息を吐いた。
「問題ない……とお答えしたいところですが、少し手こずりそうな気配は感じております。何せ、空中戦ははじめてですので」
「そうか。ならば、少しばかり手を貸してやろう」
レウィシアがそういった直後、再度ぶわりと暖かさを含んだ風が膨れ上がるように舞い――彼の身体が宙を舞った。
魔力操作による追い風に助けてもらいながら、元々いた位置からさらに上空へ逃げた魔獣へ瞬く間に接近する。
対する魔獣は脆弱な生き物である人間に何度も傷を負わされ、よほど気が立っているらしく、近づいてくるレウィシアへ鋭い殺気を向けている。細長い身体をくねらせ、鋭い牙が並んだ口を大きく開き、自ら飛び込んでくるレウィシアを飲み込もうと彼に迫る。
自らに迫る牙を見ても臆することなく、レウィシアは手にしている剣を大きく振るい、魔獣の口内に刃を叩き込んで食らいつかせた。
「ッらァ!!」
乱暴な口調で叫び、魔獣を食らいつかせた状態のまま、力任せに海面へ向けて剣を振るう。
振るわれた剣が再度魔獣の口の端を斬り裂き、痛みで反射的に口を開けた魔獣の身体が振るわれた勢いのまま海面へ向けて落下する。
はっと我に返り、とっさに短剣で魔獣の落下地点を指し示し、足場を構築する。
重量を感じさせる大きな音をたて、魔獣の大きな身体が足場に勢いよく叩きつけられる。魔獣から苦悶に満ちた声が上がり、大きな口からわずかに赤黒い血が吐き出された。
レウィシアの手によって文字通り地上へ叩き落され、一時的に身動きができなくなった隙をフィリカは見逃しはしない。
軽やかな足取りで自らの足元にある足場を蹴り、とっさに動けずに蠢く魔獣へ接近する。
そして、長剣の刃に魔力を乗せ、鱗に守られた太い首に向かって勢いよく振り下ろした。
ギィ、グゥウゥウウ――!
再度、苦悶に満ちた声を上げて魔獣が暴れようとする。
その動きを察知し、フィリカは自らの足に魔力をまとわせて振り上げ、魔獣の口を閉じさせるように頭部を踏みつけた。
「うるさい」
低い声で一言告げ、再度剣を振り上げては振り下ろす。
それを何度か繰り返せば聞こえていた苦悶の声も止み、しん――と静寂が場に満ちる。
天から降り注いでいた雨も、吹き荒れていた風も次第に勢いを緩めていき、最後の一吹きと一滴を最後に感じられなくなる。
空を覆っていた暗い分厚い雲の隙間から陽光が差し込み始め、海もあれだけ荒れ狂っていたのが嘘だったかのように落ち着きを取り戻し始めていた。
深く考えなくてもわかる。
レーシュティア領に――そして、シュテルメアの町に忍び寄ってきていた脅威は、無事に取り除かれたのだと。
――よかった。もっと暴れられる前に対処できて。
心の中で安堵の息をつき、振り返る。
背後に見える港の様子はそれほど荒れておらず、強風や雨による影響が見える程度だ。魔獣によって受けた被害の痕跡は見当たらない。これなら町全体にも魔獣による悪影響は及んでいないだろう。
「ご助力感謝いたします、レウィ様」
ぽたり、ぽたりと髪から滴る雨水を拭い、首を落とした際に溢れた血も拭い、フィリカはすぐ傍に立つレウィシアを見上げてにぱりと笑った。
頭から爪先までずぶ濡れだ。強風の中で立ち回ったから髪だってぐちゃぐちゃで、返り血を浴びた姿は辺境伯令嬢という肩書きからかけ離れている。
今の自分は、他家の子息令嬢たちに囁かれているとおり、うんと野蛮で醜い姿をしているに違いない。
でも、これが自分だ。
これが『フィリカ・ブルーエルフィン』だ。
「レウィ様のお力があったおかげで、大きな被害を出すことなくシュテルメアの皆様を守れました」
手を伸ばし、自分よりも大きなレウィシアの手を握る。
差し込んできた陽光を背負ってこちらを見下ろすレウィシアも、雨水や返り血で汚れた姿をしている。傷一つ見当たらないが、彼の姿も同様に野蛮や醜いと称される身なりをしている。
けれど、今のフィリカには――これまで出会ってきた誰よりも美しく、凛々しく、魅力的な姿として映った。
ああもう、認めよう。
この人は――レウィシア・ベルテロッティ公爵は自分にとって一等大切な人だ。
「……魔獣は無事に討伐されましたから……『世界』を喰らいましょう、ともに」
レウィシアの薄灰色の目が大きく見開かれる。
驚いたかのような表情でこちらを見つめられたのもほんの数分という短い間。数分が経過した頃には、まるで眩しいものを見つめるかのように両目を細めて口角を持ち上げた。
「……ああ。本当に感謝する、フィリカ」
穏やかな声とともにフィリカの手が握り返される。
激しい風雨で少し冷えてしまっているけれど、それでもほのかな温もりが伝わってくる大きな手が、握ったフィリカの手をそっと動かして口元へ運ぶ。
手の甲に柔らかい感触が触れて――何をされたのか一瞬脳が理解を拒否し、少しの時間を置いてから理解し、ぼっとフィリカの両頬が急速に熱をもつ。
「お前のおかげで長年定めていた目的が――長年抱えていた夢が叶うかもしれない」
フィリカの手の甲からそっと唇を離し、レウィシアがにまりと笑う。
ああもう、この人は――本当にずるいんだから!
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