5-4

 フィリカ・ブルーエルフィンが戦場に立つ姿をはじめて目にした日、最初に感じたのは『美しい』という感情だった。

 今もまだ鮮明に思い出せる。噂のブルーエルフィン辺境伯令嬢がどのような人物なのかを目にするため、ロムレア領へ足を運んだ際に見た彼女の姿は――疲弊しつつあった戦場に立った瞬間、騎士や傭兵たちの士気を高めて勇気づけたその姿はとても美しかった。


 簡単には忘れられないぐらいに。

 瞼の裏に焼きついて離れないぐらいに。

 これまで出会ってきた令嬢たちの中で、もっとも美しいと感じるぐらいに。

 フィリカが戦場に立ち、剣を振るう姿はレウィシア・ベルテロッティという男の心をあっという間に捕らえた。


 今思えば、その瞬間から彼女に心惹かれていたのだろう。

 実際に彼女を自領に呼び寄せ、滞在させ、時間を共有するうちに想いは少しずつ表面化して――改めて戦場に立つ姿を目にした瞬間、レウィシアの中で渦巻く感情は明確な色と形を帯びた。

 もう一度目にした、戦場に立つフィリカの姿は――自分でも気付かないほどに沈んでいた想いを自覚させるほど美しかったのだ。

 この世界に満ちる、美しさを表すありとあらゆる言葉を彼女に贈り、それでも足りないほどに!


「……全く。本当に恐ろしい令嬢だ」


 嵐が去ったシュテルメアの港を眺めながら、自分にしか聞き取れないほどの声量で呟く。

 シュテルメアに忍び寄っていた『竜』の討伐を終え、人が戻ってきた港は多くの声で満ちている。レウィシアの視線と心を奪った令嬢もその中に混ざっており、首をはねた『竜』を陸地に引きずってきて、それを目にした数人の騎士と何やら言葉を交わしている。


 彼女と騎士たちの間に特別さを感じさせる空気はない。『竜』と呼ばれるほどに強大な魔獣の姿も亡骸もめったに見れないため、そのことについて話しているだけだろう。

 頭ではわかっているつもりなのに、肝心の心が上手くついてこずに靄がかっているのだから、我ながらどうしようもない。


 ――文献によれば、狂竜は気が狂ったかのように暴れまわっては他生物や人間の命を奪っていたから『狂竜』と呼ばれるようになったそうだが。武力的な狂気だけでなく、人の心を狂わせる竜でもあったのかもしれないな。


 そんなことを一人で考えては内心で苦笑を浮かべるくらい、今のレウィシアの心は乱れているのだから。

 そろそろ文句の一つでもぶつけに行こうか――そんなことを考え、何らかの言葉を交わしているフィリカたちのほうへ歩を進めようと一歩を踏み出した。


 が。

 レウィシアが接近するよりも早く、ぱ、と。

 フィリカの目がこちらへ向けられて、思わず動きを止めた。

 これまでどんな魔獣に睨まれても動きを止めることはなかったのに、たった一人の少女に見られただけで歩が止まってしまうだなんて、かつての自分が知ると驚くに違いない。

 レウィシアが眺める先で、フィリカは傍にいた騎士へ二言三言何やら告げ、軽やかな足取りでこちらに駆け寄ってくる。


「レウィ様」

「……どうした、フィリカ」


 彼女の唇が音を発し、レウィシアの名を告げる。

 名前を呼ばれただけ。たったそれだけのこと。特別な行動など、フィリカは何もしていない。

 けれど、たったそれだけのことで先ほどまで感じていた靄がかった感情が消え、晴れ晴れとした――満たされたような感情で胸がいっぱいになる。

 名前を呼ぶだけでこんなにもレウィシアの心を動かせるのだ、人を惑わす力があるのではと思ってしまっても仕方ないだろう。

 レウィシアのそんな内心に気づいた様子を見せず、フィリカは言葉を紡ぐ。


「騎士様方からのご報告です。避難していた住民の方々は無事に戻り、町の中に目立った被害も見当たらないそうです」

「そうか。なら、復興――というほどでもないだろうが、港だけに集中すればよさそうだな」

「はい。それから……これは少し残念な報告でもあるんですが……」


 ぴく、とわずかにレウィシアの目元が動く。


「今回、わたしたちが討伐した魔獣ですが……魔獣に詳しい騎士様によれば、厳密に言えば『竜』ではなく、嵐を呼べるほどの力を得た海蛇種だそうです」

「……海蛇種だと? あれが?」


 フィリカの言葉に反応し、思わず『竜』の――正確には海蛇種の亡骸へ視線を向けた。

 確かに伝承で語られる竜たちと比べたら細長い身体をしており、言われてみれば海蛇種に分類される魔獣たちに近い。しかし、他の海蛇種とは異なり、竜たちが持っているものに近い翼もある。

 信じられないものを見る目をしたレウィシアへ、フィリカも苦笑を浮かべる。


「わたしもお話を聞いたときは驚きましたが……どうやらそうらしくて……」


 つぃ、とフィリカもレウィシアの視線を追い、海蛇種の亡骸へ目を向けた。

 あれが『竜』ではないということは――達成できると思っていたレウィシアの目的は、叶うと思っていた夢はまだ叶わないということだ。

 ようやく叶うと思っていただけに、気分が落ちるのを隠せない。

 無意識に浅く開いた唇から溜息がこぼれ、それに気づいたフィリカが苦笑を浮かべるのが見えた。


「……まあ、そんなに上手く事が運ぶわけがないか」


 はつり、呟いて自分自身へ言い聞かせる。

 がっかりした気持ちはどうしても拭えないが、『竜』を討伐して食らうという楽しみが先に延びたのだと思おう。

 それに――。


「……それに、フィリカとまた『竜』と一戦交えることができる――ということだろうしな」


 レウィシアがそういった瞬間、フィリカが一瞬きょとんとした表情を見せた。

 少しの空白を挟んでから、彼女の両頬がみるみる間に朱に染まっていき、ぼんと音が聞こえそうなほどに真っ赤になる。

 可愛らしい反応を前に自然と口元に笑みが浮かび、思わずくつくつと肩を揺らす。

 だが、今回でレウィシアの夢が叶わなかったということはそういうことだ。フィリカと一緒にまた『竜』と一戦交えて――『竜』を討伐することができる。

 今回で終わると思っていた楽しみをもう一度味わえる。


 強大な敵を前に一歩も引くことなく立ち向かい、戦場と化した地を踏みしめて剣を振るうフィリカの姿を目にすることができる。

 そのように考えれば、一度落ちた気分が再度上がり、もやもやしていた胸の中がすっきりとして満たされるような気分になった。


「……そういうことになるかと思いますが……ですが、あの、レウィ様」

「なんだ? フィリカ」

「それは……次の『竜』が出現するまで、わたしをあなたのお傍に置いてくださるということ……でしょうか」


 不安と期待、緊張と歓喜。それぞれの感情を滲ませた声でフィリカが問う。

 彼女の言葉にレウィシアも思わずきょとんとした顔をして――けれど、すぐに両目を細めて口角を上げた。

 次の『竜』が現れるまで――レウィシアの夢が叶うかもしれない瞬間が来るまで傍に置いておくかだなんて、そんなの答えは一つしかない。


「ああ、もちろん。そのときまで――その先も、ずっと」


 すっかり真っ赤に染まったフィリカの頬に手を添え、白い肌を指先で優しく撫でる。


「俺の傍に置いておきたいと思う人間は、フィリカ。お前一人しかいないのだから」


 だから、傍を離れられるだなんて思わないほうがいい。

 この関係にいつか終わりが訪れるだなんて思わないほうがいい。

 すでに暴竜公レウィシア・ベルテロッティは、狂竜令嬢を自らのパートナーに――自らの番として選んだのだから!


「……覚悟しておくといい。フィリカ・ブルーエルフィン」


 最後に一言添えて、頬に触れていた手でフィリカの唇を一度だけ撫でたのち、するりと手を離す。

 何事もなかったかのように彼女の傍を離れ、港の被害状況の確認に迎えば、少し遅れて何をされたか――何を言われたか理解したらしいフィリカの叫び声が背中にぶつけられた。


「っそれは! ずるくありませんか!?」


 照れと焦りと驚愕と――さまざまな感情を織り交ぜた声に、思わずわずかに声をあげて笑ってしまったのは言うまでもない。

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