2-6
「このクラゲは……」
「ヒメアマアジオウゴンクラゲっつってな。ここに住んでる漁師の一部は甘クラゲとも呼んでる。一匹一匹はそこまで強い魔獣じゃねぇが、活用方法がない魔獣だ。網にかかっては無駄に網を膨れさせて魚を逃がすわ、一緒にかかった魚のエラに粘液を詰まらせて殺すわ、そうでなくてもこいつら毒持ってやがるから毒で魚を殺すわ……漁師たちにとって邪魔者なんだよ」
そういって、船長はがしがしと乱暴に自身の頭をかき、深い溜息をついた。
話している内容自体は、フィリカが最初に声をかけた漁師たちが口にしていた話と似ている。ヒメアマアジオウゴンクラゲによってもたらされている被害は、彼らが口にしているもので確定と考えてよさそうだ。
思考を巡らせながら、フィリカは網にかかった黄金色の小ぶりなクラゲたちを見つめる。
魔獣の一種だが、見た目は普通のクラゲとよく似ている。指先で触れてみても抵抗や敵対行動を見せず、ゼリーのような柔らかい感触を返すばかりだ。
確かにこの様子だと強力な力をもつ魔獣ではなさそうだが――どれだけ弱い魔獣でも数が集まれば脅威となる。実際、シュテルメアの海で大量発生しているヒメアマアジオウゴンクラゲたちも漁師たちの生活に大きな打撃を与えている。
さて、どうするべきか。数が多いのなら、何らかの方法で数を減らし、バランスをとるのがもっとも確実で効果のある方法なのだが。
大量のヒメアマアジオウゴンクラゲを見つめながら思考を巡らせたのち、フィリカは顔をあげ、船長と乗組員の二人へ目を向けた。
「先ほどお話をお聞きした漁師の方々もおっしゃっていましたが……ヒメアマアジオウゴンクラゲには活用法がないんですよね? 本当に何にも活用できないんですか? たとえば、食べるとか――」
「気になるなら一度味わってみるか?」
突然。
フィリカでもメルのものでも、さらには船長と乗組員でもない、第三者の声が空気を震わせた。
低く、落ち着きを含んだ声。低い声は相手へ威圧感を与えそうだが、不思議と聞く者にも落ち着きを与える声だ。
この声を、フィリカは知っている。ここではない場所で、ほんの少しだけ、自分はこの声を耳にしている。
は、と息を呑み、声が聞こえた方向へ目を向ける。
船長と乗組員も大きく目を見開き、弾かれたかのような素早い動きで己の背後を振り返った。
「その魔獣はとにかく数が多い。一匹や二匹、味を確かめるために食しても何も問題はないだろう」
かつり、こつり。
己の存在を主張するかのように足音を奏で、数人の騎士を引き連れて一人の男性がこちらに向かって歩いてきている。
もう少し小柄であれば女性と見間違えてしまいそうなほどの美貌。
フィリカがもつ白よりも、少々くすんだ白髪。
長めの睫毛に縁取られた、金剛石や灰月長石のように煌めく薄灰の目。
すらりとした長身を包むのは、髪色を引き立てる黒を基調とした上品な衣服。
黒いブーツに包まれた足が前に進むたび、左肩を彩る赤いペリースが揺れ動き、潮風が吹くたびに波打つ。広がる海の青とは対照的な赤はとても鮮やかで、見る者の視線を集める。
――まさか、そんな。
頭の中で音にならない声がぐるりと巡る。
出会ったのはたった一度だけ。しかし、簡単には忘れられないほど、彼の姿は鮮やかにフィリカの記憶に残っている。
信じられないものを目にしたかのような表情を見せたフィリカの視線の先で、男性が唇の両端を釣り上げ、自信を滲ませた笑みを浮かべた。
「お前が味を確かめてみたいというのなら、喜んで提供しよう。どうせ全て処理される魔獣たちだ。少しでも有効活用できると、こちらとしても助かるからな」
フィリカとメル、そして船長と乗組員。この場にいる全員のすぐ傍まで歩いてくると、男性はぴたりと足を止める。
呆然として言葉を発せずにいるフィリカだったが、はっと我に返り、浅く息を吸い込む。
だが、フィリカが言葉を発するよりも先に、我に返った船長と乗組員が声をあげた。
「べ、ベルテロッティ様!」
「領主様!」
先に船長が声をあげ、乗組員もそれに続く。
二人の声に応えるかのように――あるいは、フィリカの反応を待つかのように、男性は笑みを深めた。
少しの空白を置いたのち、フィリカも目の前に立つ彼の名を口にする。
「……お初にお目にかかります。レウィシア・ベルテロッティ閣下」
身体ごと相手に向き直り、片足を軸にしてもう片方の足を斜め後ろの内側へ滑らせ、両手で身にまとうドレスのスカートをわずかに持ち上げた。
傍にいる船長と乗組員の驚愕の視線も気にせずに深々と頭を下げ、カーテシーをする。
いつかのときのように。
はじめて顔を合わせた、あの日のように。
ロムレア領で行われたオオイワイノシシの討伐戦。
ラエティアの戦場で顔を合わせた、他国からやってきたと思われていた二人の剣士。
そのうちの一人――無愛想に見えた白髪の剣士が今、フィリカの目の前にいた。
「……まさか、あの日お会いしたのが閣下だとは思いませんでした。あのときは遠き地よりいらした遍歴の剣士様とばかり思っていたので。あのときの無礼、どうかお許しください」
深々と頭を下げた姿勢のまま許しを請う。
できるだけ落ち着いた声色を発するよう心がけているが、内心は非常に焦っている。
当時は気づいていなかったとはいえ、フィリカの態度は目上の貴族に対するものではなかった。あのときの無礼さを指摘され、何らかの処罰を受けてもおかしくはない。
許されるか、許されないか――内心で緊張するフィリカの頭上で、声を押し殺した笑い声がした。
「いい。顔を上げろ。あのときは俺も身分を隠していたのだから、わからなくて当然だ」
相手の声に反応し、おそるおそる顔をあげて眼前に立つレウィシアを見上げる。
フィリカよりもずっと高い位置にある薄灰色の両目が実に楽しそうに煌めいている。不快感や嫌悪の色はなく、むしろこちらの反応を見て楽しんでいるかのような気配が見える。
圧倒的な強者の空気をまとう姿に、思わず息を呑む。
これが、自分以外の邪竜の加護を受けた者。
魔獣に脅かされる土地を治め続ける、ベルテロッティ公爵家の現当主の姿か。
「何故あなたが屋敷ではなく、ここにいるのか少々気になるが――ここでは仕事をする民の邪魔になる。話の続きは屋敷の中でゆっくりするとしよう」
その言葉とともに、眼前の彼は――レウィシアはフィリカへ片手を差し出す。
少しの空白を置いたのち、フィリカも彼が浮かべている笑みにつられるかのように口元をわずかに緩め、伸ばされた手に自身の手を重ねる。
「……はい。わたしも、閣下にお聞きしたいことがありますので」
自分よりも大きな手が、フィリカの手を包み込む。
力強く、けれど痛みがない程度に握られた手をしっかり握り直し、フィリカは強い自信を感じさせる笑みを真っ直ぐ見つめ返す。
きらきらと煌めく薄灰の目は、フィリカの姿だけを映し出していた。
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