2-7
「さて……では、互いに聞きたいことも多いと思うが、まずは改めて自己紹介から始めようか」
公爵家の馬車に揺られ、辿り着いたベルテロッティ公爵邸は貴族の屋敷というより、一種の防衛拠点のようだった。
見晴らしのいい丘の上に建てられた屋敷は非常に大きく、屋敷全体を囲う防壁はあらゆる魔獣の攻撃を受け止められるシャーム鉱で作られている。シャーム鉱自体がドラグティア国では珍しく、他国の商人から購入しないと手に入れにくいものだが、防壁に存分に使えているのは、さすが貿易港を抱えるレーシュティア領といったところか。
案内された応接室の中、フィリカは用意された紅茶に口をつけ、改めて目の前に座るレウィシアを見つめる。
本当に見れば見るほど美しい人だ。この美貌に惹かれて接触しようとする者も多いのではと思ってしまうほどに。
今後、この人の隣に並んでいるのを見られると、妙な噂や嫌がらせをされるのでは――平穏とは程遠い日々を過ごすことになるのでは。そんなかすかな不安もフィリカの中でわずかに顔を出す。
「俺が現ベルテロッティ公爵家当主、レーシュティア領主。そして、暴竜パラベラムの加護を受けた者。レウィシア・ベルテロッティだ。今回、あなたの夫として名乗りを上げた者だ」
そんなフィリカの不安にも気づかず、レウィシアは堂々とした声色で名を名乗った。
用意された紅茶と一緒に不安や緊張を飲み込み、フィリカも同様に堂々とした声色で言葉を返す。
「……改めまして。ロムレア領から参りました、ブルーエルフィン辺境伯家が一人、フィリカ・ブルーエルフィンと申します。過去に一度名乗ったように、狂竜アタラクシア様の加護を受けた者で――」
少しの空白を挟み、深呼吸をする。
レウィシアとフィリカの関係性は、フィリカがここへ来た時点で成立したものだ。けれど、自らの意志で口にするのは、少々緊張するものがある。
「……ベルテロッティ閣下の妻になる者です」
自らの意志で口にすると、その現実がより強くのしかかってくる。
フィリカは妻になる。眼前に座るこの人と――自分よりもはるかに美しく、はるかに強いこの人の伴侶として、番として、一生をともにすることになる。
今はまだ婚約の段階だが、婚約を結ぶということはそういうことだ。自らの一生を差し出し、相手の一生を受け取り、互いに相手を傍に置くという覚悟を可視化し、約束すること。
父は婚約を破棄してもいいと言っていたが、こうして実際にレウィシアと顔を合わせてみるとよくわかる。
フィリカは、自らの意志でこの婚約を破棄するのは難しい。
破棄できるとしたら、何らかの理由でレウィシアがフィリカに価値がない――ブルーエルフィン辺境伯家と繋がりを得るメリットがないと判断したときか、彼の気まぐれで婚約破棄の提案を受け入れてくれたときぐらいだ。
そして、おそらくそのような瞬間が来るときはないのだろう。正体がわからない、そんな直感が――レウィシアの両目に射抜かれた瞬間に走った。
「閣下だなんて、そんな堅苦しい呼び方をしなくてもいい。お前が口にしたとおり、将来は夫婦になる仲なんだ。気軽にレウィでいい」
「いえ、ですが身分は閣下のほうが上で――」
「お前も将来は公爵夫人になるんだ。将来的に同じ身分になるのに、上も下もないだろう」
う……と小さなうめき声がフィリカの唇から零れる。
確かに、将来的にフィリカの立場は辺境伯家の令嬢からベルテロッティ公爵家の人間――それも、公爵家の女主人になる。
だが、それはまだ訪れていない将来の話。婚約を結んだ段階でしかない現状では、ブルーエルフィン辺境伯家よりもベルテロッティ公爵家のほうが身分が上。二人の間には超えようのない身分の差がある。
そんな相手を愛称で呼ぶだなんて、本当に許されるのか――。
「それに、一生をともにする約束をしてくれた相手に堅苦しい呼ばれ方をするだなんて、距離を感じるようで落ち着かない。愛称で呼ぶのが許されることなのか不安に感じているのなら俺が許そう。だから、もっと気軽な呼び方をしてくれないか」
さらり、と。
大きな手に髪を撫でられ、ぐるぐる考え込んでいた意識がはっと引き戻された。
レウィシアが身を乗り出してフィリカのほうへ手を伸ばし、長く伸びた髪に優しく触れている。まるで壊れ物に触れるかのように。壊れてしまいやすいものを愛でるかのように。
人間や魔獣の血を剣に吸わせ続けてきた狂人――なんて噂される姿は、どこにもない。
「……。……わかりました。閣下ご本人がお許しになってくださるのであれば、そう呼ばせていただきます」
「ああ、ぜひそうしてくれ。俺も、令嬢のことはフィリカと名前で呼ばせてもらおう」
「……ですが、レウィ様という呼び方をさせていただきます。敬称は譲れませんので、どうかご容赦を」
満足げだったレウィシアがきょとんとした表情を見せ、数回ほど瞬きを繰り返した。
レウィシア的には愛称で呼んでほしいというのはよくわかった――が、敬称は譲れない。いきなり敬称も外して、愛称のみで相手を呼ぶにはフィリカの勇気もなければ心の準備もできていない。
完全な初対面ではなく過去に一度だけ顔を合わせていたとはいえ、あのときは完全に遍歴の騎士だと思っていた。レウィシアが本当に遍歴の騎士であれば彼の要求も簡単に呑めたかもしれないが、自分よりも身分が高い相手だとわかった今は簡単に呑めそうにない。
敬称を外すにも、もう少し心の準備ができてから。
強い意志をもって反論したフィリカの視線の先で、レウィシアはぽかんとしたような表情を見せていたが――やがて、その表情もくしゃりと崩し、くつくつと喉の奥で押し殺した笑い声をあげた。
「わかったわかった。俺としては、敬称も外してほしいところなんだが」
「自分よりも身分が高く、年齢も上の方をほぼ初対面から敬称もなく愛称のみで呼ぶのは、わたしの勇気も心の準備も足りていませんので」
「初対面ではなく、ロムレアの町……確かラエティアだったか? あそこで一度顔を合わせているのに?」
「あのときは自分の婚約者になるお方だとは思っておりませんでしたし……閣下……ではなく、レウィ様の身分も遍歴の騎士だとばかり思っておりました。公爵としてのレウィ様とお会いするのは今日がはじめてなので、ほぼ初対面です」
「なら、お前が俺にもう少し慣れてくれたら、敬称を取って呼んでくれるかもしれないということだな。そのときを楽しみに待つこととしよう」
楽しげな態度を崩さないレウィシアへ、少しばかりじとりとした視線を送る。
物言いたげなフィリカとは対照的にレウィシアは余裕を崩さない。完全にペースを握り、フィリカの反応一つ一つを楽しんでいそうな様子を隠しもしない。
フィリカが内心で少しの悔しさを噛み締めていると、レウィシアが自分の分の紅茶に口をつけてから、静かに言葉を続ける。
「……さて。互いに改めて名を確認したところで……フィリカ。お前は己の足でシュテルメアを歩き、己の目でこの町の現状を見たのだろう。あなたが感じたことを包み隠さず教えてほしい」
ぱり、と。
一瞬で空気が切り替わり、張り詰めたような――緊張感に満ちた空気が場を支配した。
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