4-5
残りの作業をキッチンメイドたちに説明して頼み、フィリカはレウィシアに連れられ、キッチンから彼の執務室へと移動した。
二階の一角に作られたレウィシアの執務室は、一言で言うなら無機質な部屋だった。
仕事に必要なのだと思われるもの以外は置かれていない、まさに仕事人の部屋という雰囲気だ。
壁際に置かれた本棚には何らかの本やファイルがぎっしりと入っており、立ち上がって本を取りに行けるぐらいの距離に大きめの執務机と椅子が置かれている。執務机の上には何らかの書類や本がどんと置かれており、勉学やこういった執務作業が苦手な人間が見たら目眩がしそうだ。
執務机の前には大きなガラステーブルが置かれ、それを挟むように高級そうなソファーが置かれている。来客があったときや仕事に関する話があるときは、ここに座って言葉を交わすのだろうなと想像ができた。
ぱっと目につくのはそれぐらいで、当然といえば当然なのだが娯楽に繋がりそうなものは見当たらない。息抜きに繋がりそうなものも見当たらない。
強いていうなら、飾られている少しの花と観葉植物が目を楽しませそうなぐらいで一種の息苦しさを覚えそうだ。
幸い、フィリカは父の執務室を思い出すものがあるため、そこまで息苦しさは覚えないが。
「そこに座ってくれ。茶の一つも用意していなくて悪いな」
「あ、いえ、お気になさらずに。では……お言葉に甘えて、失礼します」
レウィシアに勧められるまま、フィリカはソファーに腰を下ろした。
高級そうな印象を受ける見た目どおり、ソファーはとても座り心地がいい。黒い革には傷も汚れも見当たらず、普段から丁寧に管理されているのが感じ取れる。
着席を勧めたレウィシアもフィリカと向かい合うように、反対側のソファーへ腰を下ろし、浅く息を吐く。
「突然連れ出して申し訳ないな。ヒメアマアジオウゴンクラゲの活用法の模索で頭を使い、疲れているだろうに」
「いえ、それほど疲れは感じていませんから大丈夫ですよ。それよりも……わたしに新たに頼みたいこととは一体何なのでしょうか」
柔らかく笑顔を浮かべて言葉を紡いだあと、真剣な表情へ切り替えて本題を切り出す。
あの場で話すのではなく、わざわざこうして場を変えるほどだ。レウィシアが新たに頼みたいことは緊急性が高いか――大勢の人の目がある場では話しにくい何かである可能性が高い。
少しでも早く詳しい内容を知りたい。
その一心で話を切り出したフィリカへ、レウィシアが静かに頷いた。
「……これはヘリオ――調査に出していた騎士が持ち帰ってきた情報だが……使用人たちがいる前では話しにくくてな」
静かな声でそう切り出し、レウィシアは一度だけ深く息を吐きだした。
まるで、自らの心を落ち着かせようとするかのように。
内で渦巻く感情を切り替えようとするかのように。
「再調査の結果、ヒメアマアジオウゴンクラゲ以外にも普段はあまり見かけないはずの水棲魔獣が見られるようになったそうだ」
「……普段は、あまり見かけないはずの……?」
「ああ。この辺りの海域には生息していないはずの水棲魔獣から、深海に生息しているはずの個体まで」
ぴく、と。フィリカの指先がわずかに動く。
「……それはつまり、水棲魔獣の生息域が変動しているということですか?」
発するフィリカの声に自然と緊張が走った。
魔獣の生息域の変動は、ロムレア領で過ごしていた頃にも目にしたことがある。
長く魔獣が生息する地で育ってきたフィリカにとって、はじめて経験することではない――だが、魔獣の生息域が変動するのは喜ばしいことではない。
これまで変化がなかった魔獣の生息域が変動すること。
それは、生息域を変えなかった魔獣たちが『生息域を変えなければならない異常事態』が起きているのを意味するのだから。
そして、そのように他の魔獣へ大きな影響を与えられる脅威は、フィリカが知る中では一つしかない。
「これまでに水棲魔獣たちが生息域を変えるようなことは起きましたか?」
「いいや。報告によれば、ヒメアマアジオウゴンクラゲの大量発生と水棲魔獣の生息域変動が同時に起きた記録は存在しないらしい。水棲魔獣の生息域変動がどれくらいの頻度で起きているかは、これから改めて調べてみるつもりだが」
……つまり、ヒメアマアジオウゴンクラゲの大量発生の裏で、水棲魔獣の生息域変動が起きるのは今回がはじめてということだ。
情報を一つ知るたびにフィリカの心拍数が上がり、嫌な予感が足元からじわじわと這い上がってくる。
緊張を強めていくフィリカとは対照的に、レウィシアの様子は変わらない。
「……。……レウィ様は、水棲魔獣の生息域変動。どのような理由で引き起こされているとお考えですか」
「逆に問うが、フィリカ。お前は水棲魔獣の生息域変動が引き起こされた理由はどのように考えている?」
問いを問いで返され、思わず言葉に詰まる。
すぐに深呼吸をして気を取り直し、フィリカは己の脳裏に浮かんだ可能性を口にした。
「……強大な力を持つ魔獣の出現。特に……『竜』と称される大型魔獣が出現している可能性があります」
大型で強力な力を持つ魔獣たちのうち――特に力が強い個体。
ドラグティア国に生きる者たちに加護を授けた竜たちと異なり、理性を失い、本能のままに暴れて災厄を振りまくようになった存在といわれているが、実際のところはどうなのか不明点も多い。
明らかになっているのは、竜と称される魔獣はその名称に似合う強大な力を持っていること。災厄という言葉が似合いそうなほどに。
「……やはり。フィリカとは気が合うな」
にぃ、と。かすかにレウィシアの口角が上がる。
返された言葉は、彼もフィリカと同じ結論を出しているという事実を物語っている。
「そのとおり。現在、シュテルメアの海には『竜』と称される大型魔獣が出現している可能性が高い」
とん、とん。
レウィシアの指先がガラステーブルを軽く叩く。
互いの口から紡がれている話の内容は、どれも心穏やかな状態では語れないもの――だというのに、レウィシアの態度は落ち着き払っている。
否、落ち着いているのではなく――まるで、何かを楽しみにしているかのような。
「……レウィ様は、不安ではないのですか?」
魔獣との戦いに慣れたフィリカでも、『竜』が迫っている可能性があると聞いて不安や少しの恐怖、大きな緊張を感じているのに。
レウィシアは『竜』との戦闘経験があるのか――それとも、フィリカ以上に戦闘経験が豊富だから落ち着いていられるのか。
「無論、俺も不安は感じているさ。だが……それ以上に、胸が踊るものも感じていてな」
胸が踊るものを感じる?
いつ己の領地が手痛い打撃を――大勢の領民を失ってもおかしくないほどの大打撃を受けるかわからない状況下で?
危険を楽しんでいるのか、それともこの余裕が暴竜から加護を受けた者の特徴なのか。
はっきりと訝しげな顔をして思考を巡らせるも、レウィシアの内面は見えてこない。当然だ。フィリカはフィリカであって、レウィシアではないのだから。
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