6-9
頭上に広がっていた青空が夕の色に染まり、緩やかに藍が入り交じる。
始まってからすっかり時間が経っているが祝賀会が終わる時間にはまだ遠く、場もまだまだ盛り上がり続けている。
大勢の人々で賑わうタープテントの下を離れ、フィリカは炭酸水が注がれたグラスを片手に、祝賀会の会場から離れた波止場の一角へ歩を進めた。
遠く離れているわけではないが賑やかな場からは距離があり、あれだけ聞こえていた人々の笑い声や談笑する声も今は小さく聞こえる。
周囲に夜が近づく静寂が広がる中、フィリカは眼前に広がる景色を眺め、浅く息を吐いた。
「さすがに、一度にあれだけの料理を作ると疲れるなぁ……」
塩胡椒で味付けした串焼きだけでも結構な量になった。
それに加え、腹開き風にして蒲焼き風のソースを数回重ね塗りして焼いたもの、ほのかな辛味を感じるソースをたっぷりとかけたチリステーキ風に焼き上げたもの――祝賀会に参加してくれた人々に行き渡るよう料理を用意したのだ、一段落すれば自然と疲労がのしかかってくる。
大人数の魔獣料理を用意するのはこれまでも経験があったから大丈夫だろうとばかり考えていたが、いくら慣れているからといって疲労を完全に断ち切れるわけではない。
――今回はちょっと頑張りすぎちゃったかな。
ああ、でもきらきらとした喜びに満ちた顔をたくさん見れたのはよかった。
少しばかり頑張りすぎた自覚はあるが、あの表情を――無数の笑顔を目にできた。
無理をしたかもしれないが後悔はしていない。フィリカが頑張らなくては、祝賀会に来てくれた人々のあの表情は目にできなかったのだから。
とはいえ、疲労がのしかかった身体には、あの場に満ちた煌めきは少しばかり眩しすぎるものがあるのも事実。
故に、こうして隙を見て、あの煌めきや賑わいが届かないこの場へやってきたのだけれど。
「……本当に綺麗な海……」
夜の藍と灯台の光を反射し、きらきらと輝く海を見つめる。
海蛇種の魔獣が現れたあの日、荒れ狂っていたのが嘘だったかのように穏やかで、眺めているとだんだんこちらの心まで穏やかになってくる。
夜闇に包まれつつある波止場に腰を下ろし、寄せては返す波の音に耳を傾けながら思い出すのは、レーシュティア領へやってきてから紡いできた日々の記憶だ。
――こんな日々を過ごすことになるだなんて、昔はこれっぽっちも思っていなかったな。
両家のメリットを得るために誰かと将来を約束する仲になることも。
一時的にとはいえ、生まれ育った実家を離れることも。
慣れ親しんだロムレアの地から遠く離れたレーシュティアの地へやってくることも。
ビジネスパートナーという形で関係が続くと思っていた相手のことを、愛してしまうことも。
どれもこれも、昔のフィリカが知ればとても驚くだろうことばかりで――けれど、どれもフィリカの中で眩いほどの光を放っている、大事な想いだ。
レウィシアと出会わなければ、彼から婚約を申し込まれなければ、きっと知ることもなかった、輝かしいほどの想いたち。
オオイワイノシシの討伐に向かったあの日――討伐後にレウィシアへ声をかけた、きっとあの日がフィリカの分岐点だったに違いない。
「……レウィ様」
愛おしくてたまらない、その人の名前を舌で転がす。
波の音と近づく夜の闇に溶け、簡単に消えてしまいそうなほどに小さな声。
たとえ風に乗ったとしても周囲の音にかき消され、誰の耳にも届かずに消えてしまいそうなほどの囁き。
「――ああ、ここにいたのか。フィリカ」
自分一人にしか聞こえない呟きに返る声があり、フィリカは反射的に振り返った。
空気を震わせるかすかな足音に、鼻をくすぐる遠く離れた場所にあるはずの食欲を誘う香りが感じ慣れた気配と一緒に近づいてくる。
夜闇に染まりつつある中でも、その人の姿は――レウィシアの姿は即座に見つけられる。
こちらへ歩み寄ってくるレウィシアを見つめ、ふにゃりと口元を柔らかく緩めた。
「レウィ様。皆さんのお傍にいなくてよろしいのですか?」
表情と同じ、柔らかい声色で問いかけ、わずかに首を傾げる。
ゆったりとした歩調を崩さず、フィリカのすぐ傍までやってくると、レウィシアは手に持った料理が落ちないよう気をつけながら隣に腰を下ろす。
食欲を誘う香りがすぐ隣から感じられ、自然と胃がきゅうと締めつけられるような感覚がし、空腹を刺激された。
「何、少しぐらい場を離れても問題ないだろう。フィリカこそ場に戻らなくていいのか? お前と話したそうにしている者もいたが」
「わたしは少し休憩時間中です。休憩が終わったらまた皆さんの下に戻りますから、今は少しだけ自由にさせてもらいます」
魔獣料理を提供するために頑張ったのだ、今ぐらいは穏やかな時間を満喫したっていいだろう。
けれど、話したいと思ってくれている人々がいるなら、できるだけ早く戻ったほうがいいだろうか。
思考を巡らせながら口元へグラスを運び、そっと傾けて炭酸水を飲む。
しゅわしゅわとした炭酸の刺激感と冷えた水の温度が心地よく喉を通り、渇きを癒すと同時に爽やかな気分をフィリカに味わわせる。
横目で息をつくフィリカを眺めたのち、レウィシアは持ってきた料理のうち、蒲焼き風のソースをかけた串焼きから串を外し、ナイフとフォークで丁寧に切り分けていく。
「それもそうか。フィリカは魔獣討伐はもちろん、祝賀会の提案から料理の用意まで本当に頑張ってくれた。ならば、今は休息の時間としようか」
頑張ってくれた――。
レウィシアの唇が紡いだその一言が耳に届いた途端、フィリカの胸の奥がじんと温まる。
港に現れた海蛇種の魔獣討伐も、祝賀会を開く提案をすることも、メインディッシュとなる料理を用意することも、全てフィリカが自ら望んで実行したこと。
誰かに感謝されたいわけではなくて、自分がそうしたいと考えて選んだことだけれど、やはり感謝の念を向けられればくすぐったくなって満たされる。
その言葉をくれたのが、他の誰でもない――想いを寄せる相手であるレウィシアだから、なおさら満たされるものがある。
自分でもわかるほど口元が緩むが、夜闇に染まりつつある中だ。わざわざ隠さなくたってよく見えないだろう。
自分はこんなにも単純な人間だったろうかとも思うが、それだけレウィシアを大事に思っていて、彼のことを愛しているということなのだろう。
特定の誰かの言葉で簡単に一喜一憂してしまうのも――そうなってしまうほど、特定個人を特別に想い、愛することも、レウィシアと出会うまで知らなかった。
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