悪夢(3)

時が戻ったあの日から十日。これからどうすればいいのか悩みに暮れていたクローディアは、宮から出ることがなくなった。

元より幼い頃から病弱で、よく身体を壊しては寝込んでいた為、ひと月以上篭っていても心配してくれるのは家族くらいだ。


だからこのままここでひとり静かに過ごし、やがて舞い込んでくるであろう縁談も断れば、戦など起きない平和で穏やかな世が訪れるのではないかと思っていた。


そんなある日、塞ぎ込んでしまった主人を心配したアンナがエレノスを呼んだ。

悪夢を見た日から様子が変なのだと聞いたエレノスは両手いっぱいの花束と、クローディアが好きな菓子を持って訪れた。


「中々会いに来れなくてすまないね、ディア。ここのところ元気がないと聞いたんだが、何かあったのかい?」


エレノスは忙しい合間を縫って来てくれたのか、端正な顔からは疲労の色が伺えた。長兄である皇帝ルヴェルグの負担を少しでも減らすために、仕事を沢山請け負っているのだろう。


「お兄様…ごめんなさい、私は元気よ」


クローディアはぎこちない微笑を浮かべた。身も心も元気というわけではないが、身体は問題ないのだ。

そんなクローディアをエレノスはしばらくじっと観察していたが、やがて小さなため息とともにクローディアの隣に腰を下ろした。


「元気ならいいんだ。…悪夢を見て泣いた日から、部屋で過ごすことが多くなったと聞いたんだが、どんな夢を見たのか話すことはできるかい?」


悪夢を見て泣いた日とは、あの夢から醒めた日のことだろう。大好きな家族と過ごしていた頃に戻ってきたことに安堵して、人の目も気にせずに泣きじゃくってしまったが、まさかそのように話が伝わっていたとは。


そんなことを考えていると、不意に兄と視線が交わった。

何か言わねばと口を開いたが、出てきたのは声ではなく涙だった。


「…ディア?」


あの子と同じ、菫色の瞳。胸元くらいまである艶やかな銀色の髪、抜けるような白さの肌。

母を喪った日から私にはこの人がいたけれど、あの子の傍には誰がいてくれたのだろう。


「…泣かないでおくれ、クローディア」


何か熱いものが滑り落ちる頬へと兄の手が添えられる。その柔い温度に声を上げて泣きたくなってしまった。

 

── 『私の身勝手な願いで、母上の時間を巻き戻してしまい申し訳ございません。』


クローディアはエレノスの腕の中で啜り泣いた。

今この瞬間は奇跡なのだ。触れることも、その姿を見ることさえ叶わなかった息子が起こしてくれたもの。エレノスにそっくりだった我が子がくれた贈り物。それをこの部屋で時が過ぎ去るのを待とうとしていた。


こうしてまた家族の元に帰ってこれたのだ。息子が言っていた未来にしないために、できることをやらなければならないのに。


「…とても、とても怖い夢を見たんだね。思い出させてすまない」


「いいえ、いいえっ…! こうしてお兄様が居てくれるから、いいの」


エレノスの声にクローディアは何度も頭を振った。もう悪夢を──あの辛い日々を送ることはないのだと自分に言い聞かせる。


「夢は夢でしかない。その辛い記憶が薄れるよう、新たに思い出を作って上書きをしよう」


果たしてそんな日が来るのだろうか。目を閉じるだけで鮮明に思い出すというのに。 

クローディアが顔を曇らせたのを見て、エレノスは「そういえば」と呟く。


「城下では明日から祭りがある。明日は建国千年祭の前夜祭で、城下では様々な催し物があるから、アンナと共に気晴らしに行くといい」


帝国は今年で建国千年目を迎える。戦なき平和な世となった今、国を挙げて盛大に祝われることだろう。

城の外に大切な妹を出すのは心配で堪らないが、皇宮の中にいては知ることのできない世界を見聞きすれば気が晴れるはずだ。

そう考えたエレノスは妹の背中を押すように柔らかに微笑みかけた。


「お兄様は一緒に行ってくださらないの?」 


「私は明日オルシェ公と使節団をお迎えしなければならなくてね。…夕方には戻るから、ローレンスも呼んで皆で一緒に夕食を頂こう」


ひと月ぶりに夕食を囲むね、とエレノスは嬉しそうに言ったが、クローディアにとっては数年ぶりのように感じられた。

クローディアは、この温かな日々に戻ってきたのだ。

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