予兆(2)


洗い立てのような太陽の光が部屋に差し込む。カーテンの隙間から訪れたそれの眩しさで、リアンは目を醒ました。


ゆっくりと体を起こすと、左手に痺れを感じた。その原因を探そうと視線を動かすと、安らかな寝息を立てているクローディアの姿が目に入る。


(……そっか、昨日…)


左手が痺れていたのは、一晩中手を握っていたからだ。どうして繋いでいるのか、どちらからそうしたのかは覚えていないが。


「…う……ん…」


リアンが動いたからか、クローディアが目を開けた。その目はぼんやりと天井を映していたが、次第に意識がはっきりとしてきたのか、隣にいるリアンへと動く。


「…お、おはよう。ディア」


初めて女の子と共に朝を迎えたという状況に気がついたリアンは、挨拶をしたきり黙り込んでしまった。こういう時には何と声を掛ければいいのか分からなかったのだ。


本当の夫婦ではないとはいえ、同じベッドで女の子と眠りにつき、朝を迎えた。そうしたらおはようの後は何と言えばいいのか。


女遊びが好きな人に、知恵を拝借すれば良かったとリアンは後悔しそうになったが、寝起きのクローディアがふにゃりと笑ったのを見て、リアンの頭はまっさらになった。


「…おはよう、リアン」


「………おは、よう」


リアンは咄嗟にクローディアから目を逸らし、メイドを呼ぶ呼び鈴を鳴らし、朝の支度をするよう命じて逃げるように続きの部屋へと入った。


寝起きの女の子を見たら、悪いことをしたような気分になったのだ。そのうえなんだか顔も熱い。


(…熱でも出たのかな、俺)


リアンは冷たい水で何度も顔を洗って着替えた後、外の風に当たるために庭園へと向かった。


皇女の住まいである宮殿は、アウストリア皇城の南側に位置している。


通称南宮と呼ばれているこの建物は、皇帝の住まいがある皇宮に比べると大きさはその十分の一ほどだが、五つある宮殿の中で一番美しい場所だった。


その宮の主人である皇女は、この秋に結婚した。

それを機に新たな宮殿を建て、そこを新居とすべきだという議論があったが、クローディアとリアンはそれを断った。自分たちの為ではなく、そのお金は恵まれない子どもたちのために使って欲しいと願い出たのだ。


二人のその言葉に感銘を受けた政務官たちは、すぐに皇女殿下夫妻の名で教会や孤児院へ物資を送る手配をしたそうだ。



「──おや、殿下。お早いお目覚めで」


四季折々の花が咲く庭園へ足を踏み入れたリアンを出迎えたのは、庭師のような格好をしているローレンスだった。右手には変わった形のはさみ、左手には小瓶がある。


「…おはようございます、ローレンス殿下。ここで何を?」


「花の世話ですよ。僕は花が大好きでね」


ローレンスはクローディアの住まいである南宮の花の世話をしていることを明かすと、今が見頃である花を一輪手折ってリアンに手渡した。


渡された花は薄桃色の薔薇だった。寝室に飾ったらクローディアはどんな反応をするだろうと考えたら、口の端に笑みが滲む。


何となく、クローディアはアルメリア以外の花も好きな気がしたのだ。この薔薇を貰った時、クローディアが顔を綻ばせるのが想像できた。


「…ここにアルメリアを植える予定はありますか?」


リアンの問いかけに、ローレンスは一瞬驚いたように目を丸くさせたが、すぐに笑みを飾った。


「もちろん植えますとも。春が来たら、ここら一帯はアルメリアになります」


秋の薔薇が散ったら、冬が来て、そうして春が来たら──ここはアルメリアでいっぱいになる。その時クローディアは、今よりももっと笑ってくれるだろうか。


軽い気持ちでした悪戯のせいで、昨晩クローディアを泣かせてしまったリアンは、目が覚めてからそんなことばかり考えていた。


「…まさか殿下も好きだとは」


ローレンスがぽつりと呟いた。それを聞いたリアンは手元の薔薇からローレンスへと視線を動かし、あの夕暮れの日に思いを馳せた。


──好きかどうかと聞かれたら、どちらでもない。チューリップや紫陽花のように、当たり前のようにただ知っていただけの花だ。


だが、クローディアにとってはそうではないようだった。だからリアンにとってそれをただの花にするのではなく、妻の好きな花だと覚えることにしたのだ。


形だけの夫婦だとしても、夫婦は夫婦だ。相手のことは知っておきたい。好きではなく愛していると言っていたあの日の横顔が、リアンは忘れられないのだから。


「アルメリアは、ディアも好きなのだよ」


「…知っています」


「さすがは夫君だ。きっと、僕らの知らないディアのことも知っているのだろうね」


「…家族には勝てません」


ローレンスは声を上げて笑った。それはそうだ、負けては兄失格だと幸せそうに言うと、リアンの頭をわしゃわしゃと撫でた。


「晴れて君も僕の家族となったのだから、そんな寂しいことを言わないでくれたまえ」


家族という言葉に、リアンの鼓動が跳ねる。父も母も兄もいたが、それらしい会話をしたり共に過ごしたことがほとんどなかったリアンには、家族とはどういうものなのかが分からない。


だからこうしてローレンスに頭を撫でられると、どんな反応をすればいいのか分からないし、湧きあがるくすぐったいような、照れ臭いような気持ちのやり場も分からない。


だが、優しくに微笑むローレンスを見ていると、こっちまで幸せな気持ちになる。そんな風に過ごしていると、家族とはきっとこういうものなのだろうと思うことはできた。


「──ローレンス。ここに居たんだね」


そこへ、艶のある柔らかな声が落ちる。声がした方を向くと、皇宮の方角からエレノスが歩いて来ていた。その後ろには正装姿のフェルナンドもいる。


「おはよう、ローレンス。ヴァレリアン殿下も」


「やあ兄上よ。フェルナンド殿下もご機嫌麗しゅう」


「おはようございます。エレノス閣下」


リアンは挨拶を返した後、エレノスの少し後ろで気味が悪いくらいにニッコリと微笑んでいるフェルナンドを睨みつけた。何故ここにフェルナンドがいるのか。

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