皇女(4)

生まれた時に母親を亡くしたクローディアの母代わりだったのは、ベルンハルト公子の母君・オルシェ公爵夫人だった。

その息子でありクローディアとは幼少の頃からの付き合いであるベルンハルト公子ならば、きっと妹を幸せにしてくれるだろう、とルヴェルグとエレノスは思っているのだが。


「…僕は無理に嫁がせなくても良いと思うんですがね」


ただ一人、不貞腐れた顔をしているローレンスは、クローディアの結婚話が嫌なようだ。


「ローレンスよ。そなたの気持ちは分かるが、それではディアが笑い者にされてしまうぞ」


この国の女性は、十代後半で嫁ぐのが大半だ。二十を過ぎた未婚の女性は行き遅れだと陰で言われてしまう。 


ローレンスは脚を組み頬杖をつくと、大きなため息をこぼした。


「他者の声など、ひとつも届かない幸せな箱庭に閉じ込めてしまえばいいのです。良い相手に嫁ぐことだけが女性の幸せだとは限らないのですから」


美女に目がなく、遊び歩いてばかりのローレンスだが、公務を蔑ろにすることはなく、クローディアをはじめ家族のことは二人の兄と同様に何よりも大切にしていた。


その気持ちを言葉にして表に出すことは少ないが、こうして家族だけで話す機会を設けると、表情や態度とは裏腹に家族想いな心根の持ち主であることが窺える。


「…血の近い者同士の婚姻によって、体が弱い子どもが生まれるのが怖いならば、子どもを作らず、養子でも迎えればいい。良縁に恵まれなかったのなら、これからも我らの目の届くところに置いておけばよいかと」


ルヴェルグとエレノスは目を見張った。


第一の婚約者候補であるベルンハルト公子との縁談を持ち上げられずにいるのなら、これからも変わらずに一番近くで見守ればいいのではないかとローレンスは意見を述べたのだ。


「我らはあの子が生まれた日、ソフィア皇妃がお亡くなりになったあの日──あの子を脅かすものは全て滅し、この世の誰よりも幸福にすると誓った。それをお忘れだろうか?」


ローレンスの言葉に、二人の兄は言葉を飲み込んだ。


クローディアと同じく身体が弱かったソフィア皇妃は、クローディアを産んだ日に亡くなってしまったのだ。

生まれたばかりの妹に会いにきた三人の兄に、私の代わりに成長を見守り、愛してやってくれ、と言葉を遺して。


ローレンスは幼少期より自分が皇帝になるのだと意気込んでいたが、ソフィア皇妃が亡くなった日からそれは二度と口にしなくなった。それだけでなく、皇帝の座など継がないと公言し、世間を騒がせてしまった。


「しきたりなど、兄上の一声でどうとでもなる世になったのです。僕はクローディアの思うがままに、自由にさせてあげたい」


そう言い放つと、ローレンスはソファから立ち上がり「では美女探しに行って参ります」とホールへと降りていった。


「…そうですね。ディアが幸せでいてくれるのなら」


紫色の髪と瞳を持って生まれた皇族であることを誇り、帝位を継いで民を豊かにすると夢を語っていた弟は、気づけば一人の逞しい青年へと成長していた。

そのことに気付かされたルヴェルグとエレノスは、美女探しに行くと言っておきながら、他国からの賓客に挨拶回りをしているローレンスの姿を見て微笑み合った。




幼馴染であるベルンハルト公子に会うためにホールへと降り立ったクローディアだったが、瞬く間にたくさんの人に囲まれてしまった。滅多に人前に現れない皇女が来ているのだ。認知されたい輩は数えきれない。


(ど、どうしましょうっ…)


人混みが大の苦手なクローディアは、次々と挨拶をしてくる貴族たちを前にして固まってしまった。皇女としてどうするべきなのかは分かっているが、緊張のあまりに脚が震えてしまっている。


「ご機嫌よう、皇女殿下。今日もお美しいです」


「皇女殿下、こちらは私の息子でして──」


「──が今年は大豊作だったので、皇女殿下にと──」


次々と掛けられる声に、言葉を返さなくてはならないのに、声が喉を越えてくれない。

このような場では、いつもはエレノスが一緒だったので、クローディアはその横で微笑んでいるだけで大丈夫だった。

だが、今は自分一人だ。ベルンハルト公子に会いたいがために飛び出してきてしまった少し前の自分が恨めしい。


(助けて、エレノスおにいさま)


クローディアは俯きそうになるのを堪えながら、必死に頭を働かせた。

今目の前にいる貴族の名前は何といっただろうか。どなたから一番に返事をすべきだろうか。ベルはどこにいるのだろうか。考えているだけではこの場を切り抜けることは難しいが、大好きな幼馴染であるベルに会うためにはここを突破しなければ。


この輪の中に最も優先して声をかけるべきである相手──国境の向こうから来ている賓客の姿を探そうと、一歩足を後ろに引いた、その時だった。


「──きゃっ…!?」


うっかり自分のドレスの裾を踏んでしまったクローディアは後方に倒れ込んだ。ぐらりと視界が天井へと移り変わるのを見て、ぎゅっと目を瞑る。

具合が悪くなり倒れたことにしてしまえば、この場は何とかなるだろう。そう考えたクローディアだったが、転倒時の衝撃は来ることなく、誰かに抱き止められていた。


「──お怪我はございませんか?」


柔らかな声に、クローディアは閉じていた瞼を持ち上げた。そこには端正な顔立ちの青年が、心配そうな面持ちでクローディアの顔を覗き込んでいた。どうやらこの人が倒れそうになったクローディアを助けてくれたようだ。


「……あ、あの、ありがとうございます」


さらりと揺れた青年の髪は、夜空の色をしていた。瞳は青く澄んでいて、まるで水面のよう。

青年はクローディアを人混みから連れ出すと、壁際にあるソファに座らせ、水が入ったグラスを持ってきた。それを受け取り、一口喉に流し込んだクローディアは、サイドテーブルにグラスを置いて立ち上がり、美しい所作でお辞儀をした。


「先ほどは助けてくださりありがとうございました。深く感謝いたします。…貴方様のお名前は?」


青年はクローディアから一歩下がると、右手を胸の前に、左手を背に隠すようにして頭を下げた。


「私はオルヴィシアラから参りました。フェルナンドと申します」


オルヴィシアラはアウストリア帝国の左隣にある国だ。海が美しく、真珠という貝から採れる宝石が名産なのだと教育係から聞いたことがある。

まだ実物を見たことがなかったクローディアは、その真珠を話題に話を続けようと思ったのだが、自分の名を呼ぶベルンハルト公子の声が聞こえてきたのでやめた。


「──クローディアっ!!」


「ベルっ…!」


家族同然である幼馴染・ベルンハルト公子にようやく会えたクローディアは、花開くように微笑むと手を差し出す。それを取った公子は手の甲にキスを落とすと、にっこりと微笑み返した。


絶世の美女と謳われている皇女と公爵家の次期当主。見目麗しい二人が並んでいるのを見た人々は、数年後のオルシェ公爵夫妻だと想像するに違いない。


皇族を除いた帝国内の独身男性では、ベルンハルト公子の身分が一番高い。クローディアの縁談相手としてまず名前が挙がることは誰もが分かることだった。


「久しぶりだね、ディア。元気だった?」


「ええ、元気よ。ベルは?」


「僕は相変わらずだよ。麦畑だらけの領地で勉強するのに飽きてきたから、帝都に滞在させてもらえるよう陛下にお願いしようかなって思ってたところ」


「まあ、それは素敵だわ。ベルにたくさん会えるわね!」


「僕だけじゃなくて、母様にも会ってあげてほしいな。ディアにとても会いたがっていたから」


ベルの母君──オルシェ公爵夫人は、クローディアにとって母親のような存在だった。

自分が生まれた日に母を亡くしたクローディアは、公爵夫人とエレノスに育てられた。

当時公爵夫人が皇女の乳母を引き受けた時は、ベルンハルトはまだ一歳だったが、母親を皇女に取られたことに泣いたりはせず、妹ができたかのように皇女とよく一緒に遊んでいたそうだ。その為二人は兄妹のように仲が良い。


二人の間柄を知っているエレノスら兄たちは、ベルンハルトならば皇女の相手に相応しいと考えているのだが。


「──ご機嫌麗しゅう、ベルンハルト公子」


つい先ほどまでクローディアと話していたフェルナンドがベルンハルトに敬礼をした。視線を移したベルンハルトはフェルナンドを見て大きく目を見開いた。


「お久しぶりですね、フェルナンド殿下」


殿下、つまりクローディアと同じ皇族。オルヴィシアラならば王族と呼ぶ、君主の息子。そうとは知らずに話していたクローディアは、フェルナンドを見て瞠目した。


「ふふ、ディアったら。この方はオルヴィシアラの王太子、フェルナンド様だよ」


「まあっ…! そうとは知らずにご無礼を…」


「いやいや、お怪我がなくて何よりでした」


フェルナンドは改めて敬礼をすると、慌て出したクローディアを見て微笑んだ。


「御目に掛かれて光栄でございます、クローディア皇女殿下。噂以上にお美しい」


そう言って、クローディアを見つめるフェルナンドの瞳はとても真っ直ぐで力強かった。これまで挨拶のように言われ聞き飽きていた台詞も、心からのもののように聞こえる。

クローディアは頬を薔薇色に染め、素直にお礼を述べた。


「──良ければ一曲、御相手頂けませんか? 」


流れ出したワルツの前奏に乗るように、フェルナンドはクローディアにダンスの誘いを申し込んできた。

家族とベルンハルト以外の男性と踊ったことがなかったクローディアは、受けるべきか迷った。だが、相手は一国の王太子であり、クローディアを助けてくれた優しい人だ。お返しとして、一国の皇女としてお受けするべきだろう。


「ええ、喜んで」


フェルナンドの手に自分の手を重ねたクローディアは、そのままゆっくりと脚を動かしステップを踏んだ。

今日はベルンハルトにエスコートしてもらうのか、それともいつものようにエレノスかローレンスと踊ると思っていた貴族たちは、皇女と隣国の王太子という意外な組み合わせを見て驚いていた。

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