悪夢(5)

「…盗んだのは、本当にごめんなさい。あとでちゃんとおじさんに謝るよ」


真っ赤になった瞳でそう言った男の子を見て、少年は静かに微笑むと、懐中から何かを取り出すと男の子の手に握らせた。


「これで何か食べな」


渡されたものを見て、男の子はぱっと顔を輝かせた。どうやら銀貨を貰ったようだ。


男の子は妹の手を取ると、少年に何度も頭を下げながら去っていった。その後ろ姿を見送ったクローディアは、服の中に隠れているペンダントの辺りに手を置いた。


あの銀貨一枚で、あの子供たちは何日食べていけるのだろう。私が今着けているペンダントは、銀貨何枚分の価値があるのだろう、と。


「……この国には、満足にご飯が食べられない子供がいたのね」


小さな声でそう呟いたクローディアは、ぎゅっと唇を引き結んだ。胸元を押さえる手に力が入る。どうしてそんなことすら知らないのだろう、と自分を情けなく思っているのだ。


絞り出すようなクローディアの声を聞き逃すことなく拾った少年はフードを被り直すと、小さな兄妹が去ってから何故か落ち込んでいるクローディアへと目を向けた。


「…貴女のせいじゃないでしょ」


いいえ、とクローディアは首を横に振る。

知らないことこそが罪なのだ。皇族として生まれながら、理由をつけてその責務を放棄していた。目を向けようとさえしなかった。

ずっと、幸せな世界で守られていた。


「…温かいご飯と寝床、綺麗な服、新鮮な水。私の身の回りにあるものは全て、彼らがいるからあるもの。…当たり前のものじゃないんだわ」


クローディアははらはらと落ちていく涙を指先で乱暴に拭った。自分が悪いのに泣いてはだめだ。それに、こんな顔を見られてはアンナに心配されてしまう。

なのに涙が止まらないのだ。何も知らず、何も知ろうとせずにいた自分に腹が立ってしょうがない。


「…綺麗だね」


少年の囁きのような声に、クローディアは顔を上げた。

陽の光を受けて煌めいている青色の瞳に、ぼろぼろと泣いている自分の姿が映っている。

初対面の人の前で泣いている女のどこが綺麗だと思えたのだろう。


少年は小さく笑うと、さっき子供たちにしていたようにクローディアの頭を撫でた。  

少女のような顔立ちをしているが、その手は白くて小さいクローディアのものとは違い、所々に擦り傷や剣蛸ができている。


「貴女がどこの誰なのかは知らないけどさ、貴女のようなお姫様やお坊ちゃん…所謂いわゆる民がいてこそ成り立つ関係の上にいる方々っていうのは、たとえ民が眠らず働こうと、今日の食事を抜こうと、それが民の“義務”だからで終わらせてしまうんだよ」


義務という言葉は、クローディアによく勉強を教えてくれたローレンスが口にしていた。下の者には義務があり、上の者には責務があるのだと。


「現実見たんでしょ? 自分の足で歩いて、その目で見て、声を聞いて。…そうしてあの子らのために何かしたいって思えたなら、今日はそれだけで充分」


「っ……」


「ほら、行くよ。今頃付き人さんが探し回ってるんじゃない? 早く戻ってあげないと」


言うだけ言って行こうとする少年のマントをクローディアは掴んだ。振り返った少年は目を丸くさせると、自身の服を掴むクローディアの顔と手を交互に見る。


「……なに?」


「名前を、」


「名前? 誰の?」


クローディアは少年に名前を尋ねようとしていたのだが、いつもの癖でつい言葉を止めてしまった。家族以外の男性とこんなに近くで見つめ合うのが初めてだということに気づき、思わず言葉を飲み込んでしまったのだ。


急に黙ったクローディアが何を言おうとしていたのかを感じ取ったのか、少年は緩々と口元を綻ばせた。


「リアン」


「……リアン?」


「そう。俺の名前」


少年はリアンと名乗ると、このアウストリア帝国へは建国祭のために来たと告げた。帝国では滅多に見かけない金色の髪は、南の方にある国では珍しくない色だとも言う。


最後にアンナと居た場所を目指してリアンと歩き出したクローディアは、自身はディアと名乗った。近しい人しか呼ばない名だが、クローディアと名乗るわけにはいかない。


理由は分からないが、真っ直ぐに自分のことを見てくれるリアンにはこの国の皇女だと知られたくなかったのだ。


「リアンの瞳、とても綺麗ね。湖のようだわ」


青色から空でも海でもなく、湖を連想したことにリアンは少し驚いたが、クローディアがお忍びで街に降りている貴族の娘であることから納得した。


「…そっか、帝都は海が遠いのか」


「ええ、ここから海へは何日もかかるし、私は身体が弱くてあまり外に出られなかったから」


クローディアは顔を曇らせた。海が美しい国に嫁いだのに、一度も見ることなく終わってしまったことを思い出したからだ。


「……海は美しいけど、あの国は居心地のいい場所ではなかったな」


「あの国?」


聞かれてもいないことを話してしまったリアンはなんでもない、と誤魔化した。

何のことかとクローディアは問おうとしたが、自分を探し回るアンナの姿が見えると、リアンが言いかけていたことの続きは忘れた。


「──ほら、行きなよ。付き人さんの顔涙でくしゃくしゃだから」 


トン、とリアンに背中を押され、その勢いのままにクローディアは駆け出した。だが途中で振り返り、自分を助けてくれた美しい少年へと丁寧にお辞儀をする。


「助けてくれてありがとう、リアン。また会いましょうね」


皇女である自分が城下を歩くことはもうないだろう。だがまたいつかこうしてお忍びで出掛ける機会があったら、リアンと会えたら嬉しい。


「お嬢様ーっ!! うわああん!」


「ごめんなさいアンナ。勝手に散歩をしていたら迷子になってしまったの」


もう二度と離れるものかと泣き叫ぶアンナと、それを宥めるクローディアの背を見送ったリアンは、フードを深く被り直すと踵を返した。


その隠れていた首元には、純白の丸い小さな宝石が一つ嵌め込まれているチョーカーが、静かに揺れていた。

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