悪夢(1)
もしも神様がいるのなら、どうか私の願いを聞いてくださいませんか。
我が子は、私のいない世界で幸せに生きてゆけたでしょうか。
隣国になど嫁がなければよかった。
心の底から私のことを愛してくれる人に出逢いたかった。
叶うならば、もう一度。
幸せだったあの頃に、戻りたい。
『──目を覚まして。クローディア』
◆
どこか懐かしい声に名前を呼ばれた聞こえた気がした。けれどその声が誰のものなのか分からなかったクローディアは、嫌だ起きたくない、このままずっと眠っていたいと思った。
起きたらまた焼け付くような肺の痛みに襲われてしまう。手足は震え、視界はぼやけ、水を飲むことすら辛いあの日常に戻りたくなどない。
このままずっと、この心地よい夢の中で生きていたい。ここは不思議と痛みも苦しみも感じない、暖かい場所だから。
──さま。
誰かがクローディアの名を呼んでいる。“夜明けの花”という意味がある、祖母がつけてくれた名を。
誰が呼んでいるのだろう。必死にその名を呼ぶ存在を確かめるために、重い瞼をこじ開ければ。
「──ああ、よかったっ…!皇女様!」
目の前には泣いているアンナがいた。何故かアウストリア城の使用人の制服を着ている。
「……アンナ?」
アンナはにっこりと笑って返事をした。フェルナンドに切られたはずの髪は長く、傷だらけだった顔は綺麗だ。
もしや離宮に閉じ込められ、放置されていた王妃を見かねた誰かが助け出してくれたのだろうか?
「ここはどこなの?」
「皇女様のお部屋ですよ。熱を出されて、何日も寝込んでおられたのです」
クローディアは辺りを見回した。
見慣れた天井には豪奢なシャンデリアが、花柄の壁にはアウストリア帝国の国花──サイレントローズが描かれている絵が掛けられている。それら全てに見覚えのあるクローディアは、ゆっくりと身体を起こした。
「……どういうこと?…私は帰ってきたの?」
クローディアは瞠目した。今いる場所は、どこをどう見ても帝国で暮らしていた時の自分の部屋だった。
「皇女様ったら、怖い夢でも見ていたのですか? 皇女様はずうっとここにおられましたよ」
アンナはふふっと笑う。
(……ずっと、ここにいた?私が?)
いいや、そんなはずはない。クローディアは王国に嫁いで王太子妃となり、世継ぎを産んだ後から寝たきりになっていた。
身体が辛くて苦しくてどうしようもなかったある日、何故かローレンス兄様の声が聞こえたと思ったら、急激に眠くなって──そうして目が覚めたら帝国の自室にいる。
クローディアはハッと顔を上げた。
「アルメリアはっ…!?」
クローディアは息子の存在を思い出し、ベッドから這い出た。産んでから一度も顔を見ることすらできなかった我が子は今どこにいるのだろう。
「……? 庭園でローレンス様がお世話をされていますが…」
クローディアは駆け出した。
これが夢か現実かは分からないが、あの子がどんな顔をしているのか、元気でいるのか、ただそれだけでも確かめたい。
(夢でもいい。あの子に逢えるのなら)
クローディアが走る姿を見た使用人たちは、皆動きを止めてその姿を凝視した。中には悲鳴に近い声を上げる者もいれば、花瓶を落とす者もいた。それほどまでに衝撃的な光景だったのだ。
建物の外に出たクローディアは、ローレンスが政務そっちのけで過ごしていた場所である庭園へと向かった。
人より体力のないクローディアは息を切らし、途中で足を止めそうになったが、アルメリアに会いたい一心で走り続けた。
アルメリアはクローディアにとって、孤独と絶望に満ちていた王国で授かったたった一人の家族なのだ。ルヴェルグにエレノス、ローレンスら兄たちが自分のことを愛してくれたように、アルメリアのことも愛してあげたい。
生まれてからどれくらい経ってしまったのか分からないけれど、あの地獄のような場所から抜け出せたのだ。ここからまた始めよう。
そう決意し、クローディアは庭園の門を開け放ち、その先に飛び込んできた世界を見て息の仕方を忘れた。
「……どうしてここに…」
庭園はアルメリアの花で溢れていた。今が見頃なのか、満開に咲き誇っている。
クローディアはゆっくりと歩き出した。赤、白、桃色と何色かあるアルメリアの他にも様々な花が咲き乱れている庭園はとても美しかった。昔からよくここを訪れては、ローレンスとお茶を飲みながら色々な話をしてもらったものだ。
だけど、ここでアルメリアを見たのは初めてだった。まさかこんなにも植えられていたとは。
「──おや、ディアではないか。具合はもう大丈夫なのかい?」
懐かしい声に、クローディアは弾かれたように振り返った。そこにはローレンスが居た。花の手入れをしていたのか、ローレンスにしては地味な格好をしている。
「……っ、ろ、ローレンス兄様っ…」
「おわっ、ディ、ディア!?」
クローディアはローレンスに抱きついて、子供のように声を上げて泣き出した。
突然のことに──クローディアらしからぬ行動を見て驚いたローレンスは、どうしたらいいのかと慌てふためく。
ローレンスは兄弟で一番女性の扱いを知っているが、いつも淑やかで慎ましかった妹に飛びつかれるなり、大泣きをされている。この現状を理解することで精一杯だ。
「どうしたんだ、ディア。…むむ、もう熱は下がったようだが…」
ローレンスは子供をあやすような手つきでクローディアの背を撫でると、そのまま横に抱き上げ近くのベンチまで運んだ。そして、クローディアの涙を指先で拭うと、ぽんぽんと頭を撫でた。
「泣くことで心が落ち着くのなら、いくらでも泣くといい。ディアが笑えるようになるまで傍にいるとも。…しかし、それだけでは寂しい。できることなら、涙の理由が知りたい」
でなければ、寄り添うことはできても理解することが難しい、とローレンスは困ったように言うと、クローディアの額に短い口づけを落とした。
「…ローレンス兄様…、アルメリアは…?」
「アルメリア? それならここら一帯に咲いているものだよ。美しいだろう?」
「違う、そうではなくて…!」
そうではない、私の子であるアルメリアはどこにいるのか。そう問いたいのに、ローレンスを見てあることに気づいたクローディアは口を閉ざした。
「…ディア?」
どうしたのかね、と心配そうな目でクローディアを見るローレンスの手には、皇子の証である指輪が嵌っていた。それだけではなく、最後に会った時と比べて雰囲気が異なっている。
気のせいかもしれないが、クローディアの知るローレンスよりも幼く見えるのだ。
「…ねぇ、ローレンス兄様」
クローディアはそっとローレンスの胸を押し、ゆっくりと顔を上げ、自分と同じ紫色の瞳を見つめた。
「あれから、オルヴィシアラとはどうなったの…?」
「あれから、とは? いつのことだ? 何故ディアがオルヴィシアラを?」
嗚呼、とクローディアは崩れ落ちた。
やはり夢だったのだ。兄たちと別れ、王国に嫁ぎ、苦しい日々を送りながらも王子を産んだ。それら全ては夢だったのだ。
夢にしては生々し過ぎたが、今目の前にいるローレンスが全てを物語っている。
部屋に戻ると、そこには騒ぎを聞いて駆けつけてきたエレノスの姿があった。寝巻き姿で外に出ただけでなく、泣き腫らした顔で戻ってきたクローディアを見て、エレノスは何があったのかと問いかけてきたが、クローディアは何も言わずにエレノスの腕の中に飛び込んだ。
クローディアは長い夢を見ていたのだ。とても恐ろしく、つらくて悲しい夢を。
(どうか、ただの夢でありますように)
その日、月が昇るよりも早くにベッドに入ったクローディアは、涙を流しながら眠りについた。
どうかあれが未来を予知するものでありませんようにと、そう願いながら。
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