悪夢(2)
「──何? クローディアが?」
夜が深まった頃、エレノスとローレンスはルヴェルグの部屋を訪れ、昼間のクローディアのことを話していた。
突然ローレンスを訪ねるなり大泣きをしたこと。何故かオルヴィシアラのことを言っていたこと。エレノスに訊かれても何も答えられなかったこと。
アンナは怖い夢を見た所為だと言うが、淑やかな皇女が悪夢を見たくらいで寝衣姿パジャマで外に出るだろうか。
「ディアは話したくないようでした。あの様子からすると、口にするのも恐ろしい夢を見たのだと思いますが」
「…ふむ。そうか…」
ルヴェルグは手に持っていた書類を置くと、棚に背を預けるようにして月を見上げているエレノスに向き直る。
「ディアに何があったのかは分からないが、くれぐれも無理強いはしないように。…来月は建国千年目を祝う式典がある。ディアが万全の状態で出られるよう、配慮をしてやってくれ」
「勿論ですとも。兄上」
ローレンスは深々と頭を下げると、賓客のリストを手に部屋を出て行った。未婚の女性の名前があるかチェックをすると言っていたが、新たな貿易がしたいと言っていたから、よい商人を抱えている貴族の名をリストアップするのだろう。
「さて、私は寝るぞ。…エレノス、ディアが元気になるよう、気晴らしに城下の祭りにでも行くよう勧めておいてくれ」
エレノスは頷いた。人混みが苦手な妹がそれで元気になるとは思えないが、部屋にいるよりはいいだろう。
「はい、分かりました。…ではまた、何かありましたらお知らせいたします」
「ご苦労だった。ゆっくり休め」
パタン、とルヴェルグの部屋のドアが閉まると同時に、部屋の外に出たエレノスは、クローディアの部屋がある方角を見つめた。
生まれてから今日まで誰よりも傍にいた自分には、どんなことでも打ち明けてくれていたというのに。
「…何があったんだい、ディア」
寂しさを感じるエレノスは、ゆっくりとした足取りで部屋に戻っていった。
◆
ふと、誰かに名前を呼ばれた気がしたクローディアは、ゆっくりと目を開けた。しかしそこは辺り一面が真っ暗で、どこまでも闇が広がっている。
頭の半分はまだ温かい泥のような、無意識の領域に留まっている。それを振り払うように身体を起こすと、目の前に大きな光が灯った。
『母上』
クローディアは眩い光の中に佇む人影を見て、はっと息を飲んだ。そこには銀髪の少年が居たからだ。
『やっとお会いできましたね』
会えて嬉しい、と微笑むこの少年は何者なのだろうか。たった今母と呼ばれたことから、答えは自ずと分かる気がした。
『…貴方は、アルメリア?』
クローディアの問いかけに、少年の瞳が揺れ動いた。そうして小さく頷くと、クローディアの横に腰を下ろし、菫色の瞳を柔らかに細めた。その横顔は、大好きな兄──エレノスによく似ていた。
これは夢だ。厳重に警備されているあの部屋から、クローディアを連れ出せる人間などいないのだから。だとしたら、どうしてこのような夢を見ているのだろう。
『母上、よく聞いてください』
アルメリアは真剣な表情でクローディアの手を取ると、顔を覗き込むようにして口を開く。
『母上の死後、私は帝国で育てられました。伯父上たちは優しく、私を慈しみ、とても大切にしてくださいました。…ですが、母上の死をきっかけに再び大きな戦が起きたのです』
『私の死で…? なぜなの?』
アルメリアは長いまつ毛を伏せると、私の手を引いて歩き出した。すると、真っ暗闇だった世界に色がぽつぽつと浮かび上がり、やがてそれらは地上を映し出した。
『母上を死に追いやった王国を、ルヴェルグ伯父上が許さなかったのです。それに対抗するように、今まで大人しくしていた反帝国派が同盟を結び、帝国と激しく衝突しました』
『……ルヴェルグお兄様が…?』
『はい。たくさんの人が死にました。それらを私は、ルヴェルグ伯父上の腕の上から眺めることになりました。……とても辛かった』
ルヴェルグは戦乱の世を終わりにした人だ。しかし、クローディアはそれが如何にして終わったのかは分かっていなかった。
幼き頃に出陣を見送ったことはあるが、戦というものは見たことがない。それがどのようなものなのかは本から得た知識だけだ。
『私は神に願ったのです。もしも神がいるのなら、母上が生きる世界を返してください、と』
だからクローディアは、目を醒ましたらあの場所に居たのだろうか。王国に嫁いで死んだはずの自分が、嫁ぐ前に時が戻っていた。
それはアルメリアが神に願い、そして神が叶えたからなのだろうか。そう問いかけるようにアルメリアの目を見つめると、その菫色の瞳からは透明な雫がこぼれていた。
『私の身勝手な願いで、母上の時間を巻き戻してしまい申し訳ございません。…母上に会えてよかった』
『アルメリア…』
『どうか、母上のことを心から愛し、慈しんでくれる方と幸せになってください。…父フェルナンドのような男とはもう、二度と歩まれませぬよう』
そう言うと、クローディアの世界は眩しい光に包まれた。
アルメリアの姿はもう透けており、触れようと手を伸ばしても宙を掻く。
クローディアはやっと逢えた息子の身体を抱きしめることができないことに、息が詰まりそうになった。
自分のいない世界で、こんなにも立派になっていたこと、兄たちが育ててくれたことを知って、胸が温かくなった。けれど、アルメリアはそれを伝えにきたわけではないのだ。
アルメリアは時を戻したと、神に願ったと言った。そしてクローディアがフェルナンドに嫁がない道を歩んでいくと、アルメリアには出逢えないことになる。
そうまでしてでも、守りたいものがあったから──こうして逢いにきてくれたのだ。
『…私の愛しい子。逢いにきてくれてありがとう』
クローディアのその言葉にアルメリアは目を見開くと、花開くような笑顔を浮かべ、光とともに消えていった。
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