皇女(9)
アルメリア王子誕生後、生誕百日目を祝うパーティーが催された。
皇帝ルヴェルグの代理で王国を訪れていたローレンスは、妹の姿が見えないことに不安を感じていた。
「国王陛下。我が妹であるクローディアの姿が見えないのだが、どこにいるのかね?」
クローディアが王妃となった後、ローレンスは皇子の身分を返上し、一公爵となっていた。
帝国と王国を分ける大河のある地を皇帝から貰い受けたローレンスは、ヴァルハイム公爵家初代当主となり、臣下となって兄を支えていたのだった。
「王妃は産後の肥立ちが悪いのです。ローレンス閣下」
フェルナンドは涙ながらにそう語ると、シルクのハンカチで目元を押さえた。クローディアの身体が弱いのは帝国の人間ならば誰もが知っていることだ。本当は離宮で軟禁状態であるなどとは思うまい。
「うーむ、そうなのか。最後に会ったのは嫁ぐ前夜だ。元気にしていると良いのだが…」
山のようにお祝い品を持ってきたローレンスは、その中からクローディアに宛てたものが入っている箱を出すと、必ず渡すようフェルナンドに念を押した。
それに感動する素振りを見せるフェルナンドは、仮面の下で高らかに笑っていた。そろそろクローディアが永遠に目を覚さなくなる頃だろう、と。
その時、ホールに悲痛な叫び声が響き渡った。
「ローレンス閣下っ…!!ああ!ローレンス閣下っ…」
ローレンスは目を見開いた。なんと、雑巾のような姿をしている少女が、自分の名を呼びながら転がるように駆け寄ってきたからである。
ローレンスはその声に聞き覚えがあった。
「おや、君は……」
「な、何をしているんだ衛兵! 早く連れてゆけ!!」
君は誰だと尋ねようとしたローレンスの声は、何故か慌てているフェルナンドの声に掻き消された。
縋るような眼差しで自分を見上げる少女は無惨な姿をしており、このような知り合いがいた覚えがなかったローレンスは人違いをされたと思おうとしたのだが。
「ローレンス閣下、お願いでございますっ…!クローディアさまを、クローディアさまをっ…!!」
衛兵の腕から逃れ、自分の脚にしがみつき、ぽろぽろと涙を流しながら叫ばれたその名を聞いて、ローレンスは目の前の少女があの侍女であることに気づいた。
ローレンスは懐中からハンカチを取り出すと、人目も気にせずに膝をついて侍女の顔を拭いた。
「……アンナ、だね?君は」
侍女──アンナは、ローレンスの顔を見ると、ぽろぽろと大きい雨粒のような涙を落としながら何度も頷いた。
「ディアがどうしたと言うのかね。王子が生まれたと聞いてお祝いを持って来たのだよ。…元気にしているかね?」
「クローディア王妃様は、もう虫の息でございますっ…」
ローレンスはアンナを見て顔を青くさせているフェルナンドに向き直った。
「……どういうことだ?」
フェルナンドはわなわなと唇を震えさせながら、アンナを指差すなり「外へつまみ出せ」と衛兵に命じた。
だが、アンナはキッとフェルナンドを睨みつけると、自分を庇うようにして立っているローレンスの前に跪いた。
「ここに嫁いでから、クローディア様は酷い目に遭っておられましたっ…。どうか、どうか、生まれたアルメリア王子様を、帝国にお連れ帰りください!!そしてエレノス閣下や皇帝陛下のっ、皇女様の愛する家族の元に…!!」
「戯言をっ! 誰か!その使用人の首を刎ねよっ!!」
「──オルヴィシアラ国王陛下っ!!!」
ローレンスはふらりと立ち上がった。怒りで理性が飛んでしまいそうになったが、どこからか聴こえてくる赤子の声がローレンスを冷静にさせた。
「…ご苦労だった。アンナ」
ローレンスはマントを脱いでアンナに羽織らせると、フェルナンドに詰め寄りその胸ぐらを掴んだ。
「やはり嫁がせるべきではなかった」
そう言い放つと、護衛である帝国の騎士にアンナを預け、王国の使用人にクローディアの元に案内するよう命じ、颯爽とホールを出て行った。
ローレンスと共に王国を訪れ、今の出来事を少し離れた場所から見ていたオルシェ公ラインハルトは、引ったくるようにアルメリア王子を乳母から取り上げると、アンナを連れてローレンスを追いかけた。
王国の使用人を脅し、強制的にクローディアの元へ案内させたローレンスは、久しぶりに会う妹の姿を見て絶句した。
美貌の皇女と謳われていたクローディアだが、目の前で横たわるクローディアは痩せ細り、唇は紫色で、ぜえぜえと苦しそうに息をしていた。
「………ディアっ!」
クローディアは重い瞼をこじ開けた。その声が兄のローレンスのものであることは気づいたが、視界が朧げでどのような表情をしているのかまでは分からなかった。
「ああ、我が妹クローディアっ…!なぜこんな目にっ…!?」
ローレンスはクローディアを掻き抱いた。ろくに食事も与えてもらえなかったのかと思うくらいに痩せてしまった妹をぎゅっと抱きしめると、横向きにベッドから抱き上げる。
「帰ろう、クローディア。こんな国に居ては駄目だ。アルメリア王子と共にアウストリアに戻ろう。陛下もエレノスも皆君を歓迎する」
他国に嫁いだ皇族が離縁をして戻ることはあってはならないし、そのような事例は一度もない。だが、そんなことを言ってられる状況ではなかった。
「…いいえ、それは…なり、ませ…」
言葉の途中でクローディアは咳をした。それは中々止まらないどころか、真っ赤な鮮血まで口から溢れている。
「クローディア…」
ローレンスは指先で血を拭うと、くしゃりと顔を歪めた。
「──閣下っ! アルメリア王子様を連れて参りました!」
遅れてやって来たラインハルトは、クローディアの真横に赤子を寄せた。だがしかし、クローディアが目を開けて、その姿を見ることはなかった。
「目を開けるんだ、クローディア! ほら、君の息子がっ…我らの家族が来たぞっ…」
「……、……、」
家族、とクローディアの唇は動いたが、それが声となり音となることはなかった。
「………クローディア」
ローレンスは涙を流した。
皇族たるもの、涙は簡単に見せるな。そうクローディアに教えたのは、他ならぬローレンス自身だというのに。
「……クローディアっ…」
クローディアの呼吸が止まった。フェルナンドの差金で侍医から処方されていた良薬は、身体を蝕んでいく毒だったのだ。
動かなくなったクローディアを見て、アンナは泣き叫んだ。
「っ……皇女さまっ…皇女さまあああっ…!!!!」
アンナの泣き声につられたのか、王子も泣き出した。息をしなくなったクローディアから王子へと視線を移したローレンスは、その姿を見てさらに涙を溢れさせた。
王子アルメリアは銀髪に紫色の瞳をしており、クローディアにそっくりだったのである。
アウストリア帝国皇帝の代理として、王子生誕の祝いにオルヴィシアラへと向かったローレンスは、予定よりも早く帝国に帰還することとなった。
その帰路では“黒の御旗”──帝国内で尊い人が亡くなった時に民に報せる旗を掲げ、帝国民を驚かせた。
◆
「──ルヴェルグ皇帝陛下。ローレンス=ジェラール=ヴァルハイム。只今戻りました」
帝国に帰還したローレンスは喪服に身を包み、クローディアの棺とともに謁見を願い出た。
皇帝ルヴェルグは王国で起きた事の詳細をラインハルトからの早馬で報告を受けていたが、とても信じがたい事だったので、その目で見るまでは受け入れないようにしていた。
「…黒の御旗を掲げていたそうだな」
「…はい、“兄上”。我らの妹、クローディアが亡くなりました」
ルヴェルグは玉座から立ち上がると、棺に駆け寄った。その中は硬く目を閉ざしているクローディアの姿がある。
「……何故こんなに窶れておるのだ。嫁ぎ先で幸せに暮らしていたはずのディアが、何故このような目に…?」
分からない、とローレンスは首を横に振った。分からないけれど、もう少し早くに王国を訪れていたら、クローディアは助かっていただろう。
ただそれを悔いることしかできないローレンスは、茫然とした足取りでやって来たエレノスを抱き締めると、声を上げて泣いた。
「──陛下、王子アルメリア様でございます」
悲しみに暮れるクローディアの兄たちの元へ、レリアナ夫人が遺されたアルメリアを連れて来た。
それを受け取り抱き上げたエレノスは、愛する妹に何もかもがそっくりな甥を見てやっと涙を流す。
「…ディアにそっくりだ」
ああ、とルヴェルグは頷いて、エレノスの肩を抱いた。
「あんな国には置いてゆけないので、勝手に連れ帰りましたこと、お許しください」
「よくやった。ローレンス」
ルヴェルグはゆっくりと玉座に戻ると、凛とした顔で告げる。
「……鐘を鳴らせ。民に知らせるのだ。クローディアが天に召されたことを」
一同は「御意」と膝をつき、頭を垂れた。
──帝国歴一〇〇二年。
クローディア=オルシェ=アウストリア──絶世の美女として世界中に名を馳せていた帝国の皇女は、まだ二十にも満たない若さでこの世を去ったのだった。
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