呪縛(1)
エレノスが倒れてから目覚めるまでの数日の間、兄にずっと付き添っていたクローディアは、エレノスが眠りについたのを見届けるとリアンと合流するために椅子から立ち上がった。
何か思い詰めたような様子だったエレノスを置いていくのは気がかりだったが、今は身体を休めて欲しい。それに、ひとりになって考えたいこともあるだろう。そう自分に言い聞かせて部屋を出ると、そこにはリアンが立っていた。
「エレノス様の様子は?」
「倒れた時よりも顔色はずっと良いわ。…話もできたし」
「そう…。早く良くなるといいね」
クローディアは小さく頷いて、歩き出したリアンの後ろをついて行った。
窓辺から差し込む夕陽が、リアンの金色の髪を照らしている。ルヴェルグよりも少し薄い色合いのそれは、出逢った頃は黒いフードの下に隠されていたが、クローディアと出逢ってからはありのままの姿を陽の下で見ることができている。
じっとリアンの髪に見入っていたら、ふいにリアンが足を止めた。ぼんやりと歩いていたクローディアは、リアンの背中に頭から追突してしまった。
「急にどうしたの、リアン」
乱れた前髪を直しながら顔を上げると、リアンは無言で前を見据えていた。
「リアン?」
どこか具合でも悪いのかと尋ねようと、クローディアはリアンの前に回り込もうとしたが、リアンは何かを隠すようにクローディアの前に立ちふさがった。
「これはこれは、皇女殿下もご一緒でしたか。ご機嫌は如何ですか?」
リアンの向こうから、久しく聞いてなかった声が耳に届いた。
(──フェル、ナンド)
クローディアは息を呑んだ。それと同時に、兄の言葉が蘇る。
── 『…実は、フェルナンド殿下と話をする機会があってね。フェルナンド殿下からヴァレリアン殿下のことを聞いたのだが、どうも信じられなくて…』
エレノスはフェルナンドからリアンの何かを聞いたようだった。だからリアンとの生活はどうか訊いてきたのだと思うが、それだけではなさそうだ。もしやフェルナンドに何か吹き込まれたのだろうか。
「…そこを退いてください」
リアンは手をぎゅっと握り締めると、クローディアを庇うようにして立ちながら言い放った。声は少し掠れていた。
「誰に物を言っている。ヴァレリアン」
ゆっくりとした足取りの靴音が廊下に響く。その音で、フェルナンドがこちらに近づいてきているのが分かる。
クローディアは無意識にリアンの服の袖を掴んでいた。それに気づいたリアンは、手のひらを握る力を強めると、足を一歩前へと踏み出し、少し息を吸ってからフェルナンドを見据えた。
「…オルヴィシアラ王国の王太子殿下が、この帝国の皇帝の妹君である皇女殿下に何の御用があるのかは知りませんが、ここは皇弟殿下のお住まいです。家族以外はお引き取りを」
「その皇弟殿下と私は深い交流がある。そのうえ殿下は我が弟の妻の兄上様でもあられる方だ。見舞って何が悪い?」
フェルナンドは小馬鹿にするような口調でリアンに言い返すと、リアンの目の前で止まった。とても兄弟とは思えない会話に、クローディアは身が震えるような思いだった。
リアンがフェルナンドと不仲なのは知っている。金色の髪で生まれたことから家族だけでなく、国中の人間からも存在を疎まれて育ったことも。だから息を潜めるようにして生きてきたことも。
「……兄上」
ぽつりとリアンは声を絞り出したが、フェルナンドは兄と呼ばれたのが気に障ったのか、リアンの胸ぐらを掴んだ。
「私を兄と呼ぶなッ!!」
「あにう──」
「呼ぶなと言っているだろう!!王家の面汚しがっ…」
フェルナンドが腕を振り上げたのを見て、クローディアは咄嗟にリアンの腕を両手で掴むと、自分の方へと強く引っ張った。バランスを崩したリアンは絡れるようにしてクローディアとともに倒れ込んだが、すぐに体を起こしてクローディアの無事を確かめる。
「ディア、怪我は!?」
「大丈夫よ」
リアンこそ怪我はないか、痛いところはないかとクローディアは訊こうとしたが、リアンの後ろにいるフェルナンドの様子が変わったのを見て、はっと息を呑んだ。
「…………クローディア」
フェルナンドは短い溜息を吐くと、クローディアの目の前まで来て膝をついた。そうして何を思ったのか、クローディアの腹部をじっと見つめながら手を伸ばしたが、その手はリアンに強く叩かれた。
「ディアに触らないで」
「お前はまた私の邪魔を!」
フェルナンドは顔を歪め、リアンの肩を掴んでじりじりと力を込めた。リアンは呻き声を上げたくなりそうな痛みを感じたが、自分の後ろには守らなければならない存在がいるのだ。ここで負けて、クローディアに手を出させるわけにはいかない。
(…リアン、フェルナンド…)
一体、この諍いはいつまで続くのか。冷や汗が流れた時、優しい花の香りが辺りに漂うとともに、窓から人影が現れた。
「──これは何事だろうか。フェルナンド殿下よ」
キイ、とガラス張りの大きな窓が開かれる。そこから軽々と窓枠を飛び越えて現れたのはローレンスで、手に持っていた剣をフェルナンドの喉元に突きつけた。
「いくら妹の夫の兄上といえど、ここは我が国の城で、貴方は客人だ。王太子という立場の貴方が、それを知らないはずがないと僕は思うのだがね」
「剣をお納めください。殿下は勘違いをされています」
フェルナンドは動じるどころか優美な微笑みを浮かべると、ゆったりとした動作で立ち上がり、ローレンスに深く敬礼をした。
「誤解をさせてしまい、申し訳ありません。私はよろめいた皇女殿下をお助けしただけだったのです。それを、偶然通りかかったヴァレリアンに誤解をされっ…」
うう、とフェルナンドは悲しげに顔を歪めると、縋り付くような眼差しをローレンスに向けながら崩れ落ちた。ローレンスは剣を少し下げると、眉を顰める。
「……本当なのかね? ディア」
「それは……」
クローディアは口を噤んだ。それは全くの嘘で、リアン共々襲われていたも同然だったと言いたいが、そう伝えたら──国と国の問題に発展してしまうのではないかと思ったのだ。
幸い、クローディアもリアンも怪我をしていない。真実は秘めておくか、後々ローレンスだけにひっそりと打ち明け、口外しないよう頼むのが良いだろうと。
クローディアは隣にいるリアンを見つめた。一番の被害者は自分ではなくリアンだからだ。酷いことを言われ、殴られそうになったのだから。
リアンは暫くの間黙っていたが、クローディアに見つめられていたことに気づくと、その白くて細い手をそっと握った。
「…そのようです。すみませんが、ディアは疲れているので失礼させてください。話があるのなら改めて」
そう素っ気ない口調で言うと、リアンはクローディアを抱き起こし、細い腰に手を添え支えるようにしてその場から去った。
異変に気づいて駆けつけてくれたのであろうローレンスに無礼なことをしてしまったと思うが、青い顔をしているクローディアをあの場所に居させたくなかったのだ。
二人は建物の外に出ると、大きな噴水の前にある白塗りのベンチに腰を下ろした。
「……大丈夫?ディア」
リアンの冷たい手が頬に添えられる。触れた時、その指先は微かに震えていて、クローディアは思わず少し笑ってしまった。
「…リアンこそ、震えているじゃない」
「情けないことにね」
リアンは肩を竦めると、ふっと顔を和らげた。
「でも、逃げなかったよ。……前と違って」
少しだけ強くなったのだとリアンは笑う。その横顔はなんだか眩しくて、ずっと見ていられなかった。
クローディアはフェルナンドに言い返すどころか、目も合わせられず──それどころかリアンに守られていた。前と変わらず臆病なままだ。
このままでは駄目だと、変わらなければならないと、自分の中の何かが訴えてくるのを感じる。
(──リアンを盾に、逃げてばかりじゃだめだわ)
フェルナンドはクローディアのことを諦めてはいないようだったが、もう結婚している皇女を手に入れようとしているのなら、邪魔なのは夫君であるリアンだ。だから何度も帝国に来ては、何かを企んでいるのだと考えられるが──。
なんだか嫌な予感がしたクローディアは、きゅっと唇を引き結んだ。
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