約束(5)

一方その頃、お忍びで外出したリアンを見送ったクローディアは、侍女のアンナを連れてエレノスを訪れていた。


「──久しぶりだね、ディア」


目の前で優美に微笑む兄・エレノスから誘いがあったのは、リアンが出掛けてからすぐのことだった。


今日は何をして過ごそうかと自室へと向かって歩き始めた時、エレノスからの遣いがやって来たのだ。


今まで──リアンと結婚するまで、クローディアはエレノスと数日に一度の頻度で会っていたが、ここ最近は新婚である二人を気遣ってのことか、公務以外で顔を合わせることがなかった。


忙しない日々を送っていたからか、エレノスがいない寂しさを感じることはなかったが、いざこうして久しぶりに顔を見ると、子供のように頭を撫でられたいと思ってしまう。


「久しぶり、だなんて。お兄様にそう言う日が来るとは思わなかったわ。…なんだか痩せられた?」


顔色を良く見せる化粧で誤魔化していても、クローディアには気づかれてしまったかとエレノスは苦笑を浮かべる。その目の下には隈があり、頬は少し痩けていた。


「…ああ、やることが山積みでね。でもディアの顔を見たから元気になったよ」


エレノスはふわりと微笑んだ。手に持っていたティーカップを上品な所作で置くと、クローディアへと手を伸ばし、ゆっくりと頭を撫でる。


「ふふ、お兄様ったら」


クローディアは心地よさそうに目を細め、久しぶりの兄の温もりに幸せな気持ちになった。


エレノスが多忙なのは、今に始まったことではない。妃も世継ぎの子もいない皇帝の弟というのは、皇太子同然の立場であり、ローレンスのように公務と趣味を両立できるような時間的余裕はなかった。


だというのに、エレノスは必ず家族との時間を作るようにしている。そんな兄のことが、クローディアは大好きだ。


「ヴァレリアン殿下は、今日はどちらに?」


「リアンは教会に行っているわ。子供たちに会いに」


子供と遊ぶのが上手だと言って、クローディアは笑う。


いつしか自分の手を離れ、自分でない誰かの手を取って生きていくことは分かっていた。だが、いざこうして大人の女性になった妹を目の前にすると、喜びよりも寂しさの方が勝ったのは、まだ妹離れが出来ていないからなのだろうか。


エレノスは窓の向こうへと目を逸らし、薄らと唇を開いた。


「…そうか。立派な方だ」


空に雲が広がり、エレノスの横顔に影が落ちる。微かに仄暗くなった中で、より一層エレノスの顔色が悪く見えたクローディアは、熱でもあるのではないかと兄へ手を伸ばした。


だが、その手がエレノスに触れることは叶わなかった。


「──お兄様っ!!」


エレノスの体がぐらりと傾いたのと、クローディアが叫んだのは同時だった。


弾かれたようにエレノスの傍に駆け寄ったクローディアは、今まで出したこともないような大声で人を呼んだ。


「早く医者を呼んで頂戴っ…! お兄様が、お兄様がっ…」


クローディアはぽろぽろと涙をこぼしながら、エレノスの体を抱きしめていた。


きっと、ずっと働き詰めだったのだろう。休む間もなく、無理をしていたのだろう。だというのに、クローディアと会うために時間を作ってくれたのだ。エレノスは昔からそういう人だった。


「──皇女様っ!!」


別室で待機していたアンナが、血相を変えて飛び込んできた。同時にエレノスの側近である青年も駆けつけ、エレノスを寝室に運んで医師を呼ぶよう配下に命じると、アンナにクローディアを休ませるよう指示し出て行った。


固く目を閉ざしたエレノスが運ばれていくのを、クローディアは泣きながら見つめていた。



さらさらと、銀糸のような髪が靡いている。春景色に埋もれるように其処にいた女性は、大きなお腹を撫でながら、囁きのような声で唄を口遊んでいた。


──『つきよ ひだまりよ ゆめをみるこに ひかりのなを─…』


その歌は、エレノスにとって子守唄だった。高位貴族の生まれだというのに、皇帝の妃だというのに、自分の手で子を育てると言って聞かなかったその女性の名は、ルキウス一世の妃であった皇妃ソフィア。エレノスとクローディアの母親だ。


(──…母上)


母の夢を見るのはいつぶりだろうか。暖かく柔らかい何かに包まれ、底へ底へと引き摺り込まれるような心地がしていたエレノスは、こちらにいらっしゃいと手招いてくる母の夢から醒められずにいた。


──『さあ、エレ。もうじき父上もいらっしゃるわ。こちらにいらっしゃい』


ちちうえ、とエレノスの唇が動く。母は他の妃とは違い、父とは深い愛情で結ばれていた。そんな妃との間に生まれた子供だからか、エレノスは父に特別目をかけてもらえていた記憶がある。


母の生家の血筋の特徴である、美しい銀色の髪。皇族の証である紫色の瞳を持って生まれたエレノスは、絶世の美女にも引けを取らないほどに美しいと謳われた父・ルキウスに顔立ちがよく似ていた。


公爵家の生まれの寵妃が産んだ、美しい皇子。皇位は当然エレノスが継ぐのだと誰もが思っていた。


──そう、クローディアが生まれたあの日までは。


「──おにいさまっ!!!」


エレノスの瞼が開かれたのと、クローディアが叫んだのは同時だった。ぼんやりと見慣れた天井を見つめていたエレノスは、自分の左手に熱を灯していたクローディアへと目を動かす。


「……ディア…」


「よかった…おにいさまっ…。このまま目が覚めなかったら、どうしようかと…」


クローディアの瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。妹の泣き顔を久方ぶりに目にしたような気がしたエレノスは、クローディアの頬に手を添えた。


「…私がディアを置いてゆくわけがないよ」


泣き虫で寂しがり屋な可愛い妹。世界でたったひとり、エレノスと同じ血を引いて生まれた存在。生まれた時から誰よりも傍にいたこの愛おしい大切な子を置いて、何処へ行けというのか。


──『エレ……この子をずっと、よろしくね。私の代わりに、うんと愛してあげてね』


クローディアが生まれたあの日、エレノスは死にゆく母と約束をしたのだ。早産で生まれ落ちたがゆえに、大人になるまで生きられないかもしれないと医者に言われた妹を、母の代わりにずっと守ってゆくと。


クローディアに何かしようものなら、この世のどんなものでも、取り除いてみせると。


──だというのに。


「よかったです、お目覚めになられて。ローレンス様と陛下に知らせなければ」


守らなければならない存在は、エレノスの手を離れ、別の人間の手を取った。それは喜ぶべきことなのに。喜ばしいことなのに、いつからか、この光のように眩い王子を前にすると、何故か黒髪の王子の姿が脳裏に浮かぶのだ。


エレノスはクローディアに微笑みかけるリアンを見つめた。その姿はローレンスやルヴェルグらと変わらない、クローディアを想う家族そのものだ。


(…本当に、彼が……)


リアンはエレノスが目を覚ましたことを報せるために、部屋を出て行った。共にいた医師は身体に異常がないことを確かめると、薬を置いて部屋を下がった。残されたのは、エレノスとクローディアのふたりだけだ。


エレノスはゆっくりと体を起こすと、右手で長い前髪を掻き上げ、耳にかけた。そうしてゆっくりとクローディアと目を合わせ、薄らと唇を開く。


「……ディア。ヴァレリアン殿下は、良くしてくださっているかい…?」


クローディアはきょとんとした顔で二度瞬きをしたが、すぐに笑んだ。


「ええ。とても優しい人よ」


「そうか。ならいいんだ…」


クローディアがそう言うのならきっとそうなのだろう。妹の幸せそうな微笑みにつられ、エレノスの口元もふんわりと緩む。その一方で、かの王太子の声が幾度も脳裏で再生されたが、それを頭から振り払うようにエレノスは目を閉じた。


「…実は、フェルナンド殿下と話をする機会があってね。フェルナンド殿下からヴァレリアン殿下のことを聞いたのだが、どうも信じられなくて…」


「…フェルナンド…殿下は、何を仰っていたの?」


「いや、ここまで話しておいて悪いけれど、気にしないでおくれ。他人の口からではなく、この目で見て、この耳で聞いたものを信じることにするよ」


そう、それがきっと、エレノスにとって一番正しい道なのだ。他人の言葉よりも、目の前にいる家族が何よりも大切なのだから。


「そんな顔をしないでおくれ、ディア。……私は世界の誰よりも、ディアを想っているよ。ずっと」


フェルナンドの名前を出したあたりから、不安げな顔をしてしまったクローディアの額にエレノスは口付けを落とした。


「……ずっと私だけは、だめよ。いつか素敵な人を見つけて、幸せになって欲しいわ」


エレノスは返事の代わりに優しい微笑を飾ると、クローディアの肩をそっと抱き寄せ、窓の向こうの青空へと目を向けた。


エレノスにとってクローディアの存在は、今日も青い空が広がっているようなものなのだ。

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