約束(4)
それから数日目の朝、朝食後の散歩から宮に戻ったクローディアは、今まさに外へ出掛けようとしているリアンと玄関ホールでばったりと会った。
朝食の時、リアンは今日の予定は特にないと言っていた。だからいつものように、リアンはクローディアを連れてどこかの孤児院へ行くか、どこにも行かずに家でのんびり過ごすと思っていたのだが。
「今日はどちらへ?」
リアンはお忍びで行くのか、市井を歩いても民に紛れ込める格好をしていた。
ここ最近はすっかり着なくなっていた、顔まですっぽりと隠せる暗い色のフード付きのローブに、その下には布切れを縫い合わせたような服を纏っている。もう季節は冬だというのに、随分と薄着だ。
「グロスター侯爵領へ。あの教会の子供たちがどうしているか気になって」
行き先を聞いて、クローディアは納得した。これからリアンが行くのは、以前二人で訪れた美術館がある領地だ。帝都の隣にあり、馬車だとそう時間は掛からない。
「毎日働き詰めだと聞いたわ。たまには休んで」
行ってきますもなしに歩き出したリアンを、クローディアは慌てて追いかけながら声をかけた。すると、そう言われたのが意外だったのか、リアンはぴたりと足を止めてクローディアを振り返る。
「…分かってると思うけど、五日に一度は部屋で寝転んで過ごしてるよ。…心配なの?」
「当たり前でしょう。夫の心配くらいするわ」
リアンはどう答えて良いかわからなかったのか、クローディアから顔を隠すように俯く。恥ずかしかったのか、また別の理由からなのかは分からないが、その頬はほんのりと赤く染まっていた。
使用人の一人が馬車の用意ができたとリアンを呼びに来た時、リアンは唇を引き結んで顔を上げると、クローディアに微笑みかけた。
「……早く帰るようにするよ。なるべく」
クローディアも笑った。花開くようなその笑顔を見て、安心にも似た感情を抱いたリアンは、扉の向こうへ歩き出した。
◇
アウストリア皇城を出たリアンは、一番地味な馬車を選んで乗り込むと、御者に目的地を告げて馬を走らせた。とはいえ皇族が所有しているものなので、街中を走っているものよりも一際高そうに民の目には映っている。
リアンを乗せた馬車は、賑わう城下町を抜け、緑豊かな自然と隣り合う街道を走っていった。やがて見えてきた石造りの街──グロスター侯爵領の中心地を進んでいくと、その景色は少しずつ淋しげな色へと移り変わっていった。麦の収穫が終わった今、以前リアンが見た辺り一帯を染めていた金色はなく、閑散としている土地があるだけだった。
孤児院の前に到着すると、リアンは御者に建物の裏側に移動するよう指示し、護衛の騎士を一名だけ連れて門を潜った。
外で遊んでいた子供達が、突然の来訪人にそわそわとし出す。だがその中にいる一人の少女がリアンを見て、あっと声を上げた。
「あの時のお兄ちゃんだ!」
その少女は嬉しそうに顔を綻ばせると、共に遊んでいた子供の手を引いて、リアンの下へ駆け寄ってきた。その姿は健康的とは言い難いくらいに細いが、以前会った時よりも顔色は良く、衣服もごく普通の市民と同じようなものを着ていた。
「久しぶり。元気にしてた?」
リアンの問いかけに、少女は満遍の笑みで頷く。
「うん! あのね、コウジョフサイさまって人がね、食べるものや種をたくさん送ってくれたんだよ」
皇女夫妻は人名ではなくリアンとクローディアのことなのだが、まだ世の中のことを知らない年の頃だからか、少女は無邪気に笑う。
「みてー、新しいお洋服なの」
「僕は綺麗な紙をもらえたよ。大事にするんだー!」
少女の後に続くようにして、他の子供たちも嬉しそうに教えてくれた。沢山の笑顔を見たリアンは、一番小さな子供の頭を撫でた。
「……そう。よかったね」
幾つもの荒れた大地で、リアンが少しずつ蒔いてきた種の一つが芽吹いたようだ。その花を咲かせ、いつまでも枯れぬように導いていくのが、リアンら皇族の役目であり使命なのだろう。
それからしばらくの間、リアンが子供たちと遊んでいると、建物の中からシスターが血相を変えた様子で飛び出してきた。誰かが呼びに行ったのか、リアンの来訪に気づいたからなのかは分からないが。
シスターはリアンの目の前まで来ると、今にも泣き出しそうな顔でその場で深々と頭を下げた。
「…こんな、こんな何もない場所まで足を運んでくださり、ありがとうございます。貴方様のような御身の方が…何とお礼を申したら良いか…」
シスターは何度も頭を下げ続けた。何一つ悪いことなどしていないというのに、そんな様子でいるシスターを見たら、子供達が不思議がってしまうだろう。
どうして首を垂れるのか、リアンは誰なんだ、と。
「顔を上げてください、シスター」
リアンはシスターの肩にそっと手を触れた。恐る恐る顔を上げたシスターを見て、リアンは柔らかに微笑みかける。
「俺が来たくて来たんです。それに、約束もしたので」
そう言って、リアンはぐるりと周りを見渡す。ようやく修繕工事が開始された古びた教会に住んでいる彼らは、豊かな侯爵領の民だというのに、難民のような生活を送っていたようだった。
リアンは一番小さな子供を抱き上げると、箱いっぱいに持ってきた日持ちのする果物をひとつ手に持たせた。その子は生まれて初めてこれを目にしたのか、リアンの腕の中で瞳を輝かせている。
「遅くなって、ごめんね」
子供たちは「なにが?」と不思議がる。
リアンは何でもないよと笑いかけると、空いている方の手であの日に会った少女と手を繋ぐと、痩せた畑へ向かって歩き出した。
そんなリアンの姿を囚われたように見つめていたシスターは、その姿が遠のくと、その場で崩れ落ちた。
「…神よ、感謝いたします……」
──『金色の髪のお兄ちゃんと、お姫様のようなお姉ちゃんが来たよ』
子供たちが嬉々としてそう語っていたのは、秋の初めだった。この忘れ去られた教会に一体誰が来たのか、もしくは昨夜の夢の話だろうとシスターは思っていたのだが。
それが夢ではなく現実であったことを知ったのは、実りの季節の終わりだった。皇帝の妹である皇女が、隣国の第二王子と結婚したという報せと、その吉報とともに沢山の支援が届いたのだ。
皇族の証である紫色の薔薇の紋章が付いた馬車が二台来たのは、つい数日前のことだった。
大きな箱の中には、栄養価の高い日持ちのする食材、衣類など生活に欠かせない物だけでなく、玩具や筆記具、冬でも育つ野菜の種が溢れんばかりに入っていたのだ。
この教会は、見捨てられていたとシスターは思っていた。
宰相が治めている地であるこのグロスター侯爵領は、国一豊かな地と言われているが、直系ではなく分家の人間の管轄だからか、きちんと管理されていないのだ。
豊かな中心地からは離れた、寂れたこの地に、当然観光者は来るはずもなくて。何年経っても貴族が視察に来ることもなければ、何故か教会の前に捨てられた子供が増えるばかりで。
この先どうやって生きていこうかと頭を悩ませていたある日、奇跡は起きたのだ。
シスターは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がると、生まれ故郷から運んできた聖像を見上げた。石造りのそれは、平和を愛し、命を慈しんだという母国の神・アターレオの像だ。
「……アターレオ様。ヴァレリアン殿下をこの地に遣わしてくださり、ありがとうございます」
たとえ故郷の人々が、リアンのことを神を冒涜する者だと心無い言葉を浴びせたとしても。リアンの優しさと温かさを受け取った自分と子供たちだけは、ずっとずっと味方でいよう。
胸の中に大きな希望を抱いたシスターは、畑でリアンと野菜の種を植えている子供たちの元へと向かって歩き出した。
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