呪縛(5)

寝室を出たリアンは、汗を流すために下の階へと向かって歩いていた。白い螺旋階段を下りると、大きな白い玄関扉と青色の敷物がリアンを出迎える。その手前を曲がろうとした時、玄関の扉が開かれ二人の人間が姿を現した。


唇を開いたまま固まるリアンを見て、二人は笑った。


「──突然すまないな」


「ディアの様子が気になってしまったのだよ」


やって来たのはルヴェルグとローレンスだった。護衛も付けずに来たのか、二人とも剣を持っている。


リアンは二人をもてなすよう使用人を呼ぼうとしたが、ルヴェルグは「構わなくていい」と断ると、リアンとローレンスの腕を掴んで一番近くにあった部屋に連れ込んだ。


「単刀直入に聞こう。ディアの様子はどうだ?」


クローディアは体調不良で下がったわけではないことに、ルヴェルグとローレンスは気づいていたようだった。気づいていながら、あの場では何も言わずに帰し、こうして心配して忍んで来るとは、なんと妹想いなことか。


この場にエレノスが来ていないことが気がかりだったが、病み上がりだから二人に止められたのだろう、きっと。


「落ち込んでいる、というか、心ここに在らずというか。いい言葉が見つからないんですけど、元気がないのは確かです」


「そうか。やはりあの花の名に、何か特別な感情があるのだね」


ローレンスの言葉に、リアンは目を伏せた。

そう、それはリアンも気づいたことだった。花の話題を振られた時に、らしくもなくフォークを落としていたのだから。


だけど、その理由をクローディアは言ってくれなかった。「言えない」と言って、泣きそうな顔をしていたのだ。


そんなクローディアにリアンがしてあげられることは、これ以上クローディアが悲しい想いをしないよう、心を配ることしかできない。


「……何も、訊かないであげてください。どうかお願いします」


分かった、とルヴェルグは頷いた。ローレンスは腑に落ちない顔をしていたが、渋々といったふうに頷くと、二人は邸を出て行った。



翌日、リアンは眠っているクローディアを起こさないように部屋を出ると、エレノスの邸を訪ねた。白一色で統一された邸は美しく、水辺のある庭園では鳥たちが囀っていたが、どことなく寂しさを感じたのはリアンだけだろうか。


「珍しいですね。ヴァレリアン殿下が私を訪ねて来られるとは」


エレノスはルヴェルグとの約束通り、今日から数日は政務を休むようで、胸元辺りまである髪は下ろし、ゆったりとしたシャツに細めのパンツというラフな格好をしていた。


「どうしても聞きたいことがあるので。ご多忙だというのに、すみません」


「よいのですよ。貴方は私の義弟おとうとなのですから」


エレノスは優美に微笑むと、自ら紅茶を淹れてくれた。芸術品のように美しいティーカップからは、ほのかな林檎の香りがした。


「──それで、私に聞きたいこととは何でしょう?」


リアンは真っ直ぐにエレノスを見つめた。


クローディアと同じ銀色の髪と菫色の瞳を持つエレノスは、百合の花がよく似合う優雅で美しい男性だ。皇帝の弟である彼は、国内唯一にして最高位である皇爵の地位にある。


貴族の頂点に立つ者として、時には皇帝の代理人として忙しない日々を送っているエレノスのことは、誰もが慕っているとか。


「…先日の晩餐会で、閣下はアルメリアについて尋ねられましたよね。それはどうしてですか?」


そうリアンが問いかけると、エレノスはカップを置いた。


「…どうしても何も、アルメリアは私とクローディアの母の生家であるオルシェ家の象徴の花ですから。毎年咲いている花を、今年も見たいと願うのは特別なことでしょうか?」


ふふ、とエレノスは笑う。あまりにも綺麗に微笑むから、リアンは言葉を飲み込んでしまった。


そうか、そうなのかと。ただそれだけなのか、と。


不思議そうな目でリアンを見るエレノスは相も変わらず優美な微笑みを浮かべていて、とても嘘をついているようには見えなかった。


──否、嘘をつくような人ではないのだ。フェルナンドとは違って、家族のことを一番に考えている優しい人なのだから。


エレノスはゆっくりと立ち上がると、黙り込んだリアンの肩に手を置いた。それを辿るように視線を上げると、優しい笑顔が目に入る。だが、それと同時にある物が目に留まったリアンは、青色の瞳を見開いた。


「あの花は…!」


「申し訳ないのですが、これから来客があるのでお引き取りください」


エレノスはリアンの言葉を遮ると、有無を言わせない笑顔を浮かべ、扉へと向かって手を差す。飾られたようなそれは、これ以上話すことはないのだと遠回しに告げているようで。


だがリアンは今、黙ってそれを受け入れるわけにはいかない理由を見つけてしまった。なぜなら、この部屋の花瓶にはある花が生けられていたからだ。


それは王国でしか見ることができない、極めて珍しいもので、この世で最もリアンを憎んでいる男が一番好きな花だった。


それがここにあるということは、あの男がエレノスに近づいたという何よりの証だ。

リアンは震える唇を開いた。


「ディアは、あの花の名を切なそうに呼んでいました」


クローディアがアルメリアの花に特別な感情を持っていることは、知っていた。好きなのかと尋ねたリアンに、クローディアは愛していると言っていたのだ。あの時の寂しそうな顔が、リアンは今も忘れられない。


エレノスはリアンから目を逸らし、背を向ける。リアンがその場から動かないから、エレノスは先に出て行こうとしているのだろう。


だが、その背中を引き留めるために、リアンはエレノスの目の前に回って逃げ道を塞ぐと、頭ひとつ分高いエレノスを見上げた。


「閣下はその理由をご存知ですよね?」


知っていて、あの時その名を出したのではないだろうか。エレノスらしからぬ行動を見て、疑問は確信へと変わった。


エレノスは表情を消すと、リアンと目を合わせた。


「……私が知り得たことを、ヴァレリアン殿下はご存知なのですか?」


知り得た、ということは、クローディアではない他人の口から聞いたのだろう。それを確かめるために、敢えて口にしたのだろうか。


「俺は知りません。俺には言えない、とディアに言われました」


「そうでしょうね。貴方だけには、言いたくないことでしょうから」


リアンは眉を顰めた。自分だけには言いたくないというのはどうも引っかかる。


「それは俺が、ディアの夫だからですか?」


「間違ってはいないと、お答えしておきます」


エレノスはそう言い放つと、今度こそ部屋を出て行った。


いつだって優しげな微笑みを浮かべていた人が、それを消して逃げるように去って行った。それほどまでに、あの花の名は──クローディアだけでなく、エレノスにとっても特別な意味を持っているのだろう。


その場にひとり残されたリアンは、蕾をつけたと嬉しそうに笑っていた時のクローディアの姿を思い返していた。


ただの、花。だけど、ただの花じゃない。クローディアの心を乱し、エレノスの顔色を変えたアルメリアという花は、もしかしたら人の名前でもあるのではないだろうか。


だとしたら、寂しそうにしていたのも、嬉しそうにしていたのも納得がいく。


(──アルメリア、か)


それが人の名前だとしたら、クローディアにとってどのような存在だったのだろうか。


ただひとつだけ──ひとつだけ分かったことがあったリアンは、ごくりと唾を飲み込むと、城へと戻るために早足で邸を出た。

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