皇女(7)

それから十日後、アウストリア帝国の皇女・クローディアとオルヴィシアラ王国の王太子・フェルナンドの婚姻が正式に発表された。

帝国の政治家は皆口を揃えて「国の利益にならない」と反対していたが、皇帝であるルヴェルグの一声でそれは正式なものとなったのだった。


クローディアがオルヴィシアラに出立する前夜、皇族と高位貴族だけが参加を許された高貴なる夜会が開催された。

これまで身体が弱いことを理由に、両手で数えられるほどしか公に顔を出せなかった皇女のためにと皇帝自らが主催したものだった。


というのは表向きなもので、実際はドレスアップをしたクローディアとワルツを踊る最後の機会となる。

この国の女性は、嫁いだら自分の夫以外とは踊ってはならないというしきたりがあるのだ。


この日、オルシェ公爵夫妻から贈られた銀色のドレスに身を包んだクローディアは、従兄弟であるベルンハルトと一番に踊っていた。

ベルンハルトはクローディアが初めて公の場に顔を出した時、初めてダンスを踊った相手でもあった。今夜のファーストダンスの相手に最も相応しい人物だ。


「明日嫁いでしまう君に言うのもなんだけど、ディアは僕のお嫁さんになるのかと思ってた」


ふふっと笑うベルンハルトは、少女のような顔立ちをしているせいか、クローディアと並ぶと二人はお人形のようだった。


「私がベルに? どうして?」


従兄弟なのに、と呟いたクローディアは、ベルンハルトのことは第二の家族のように思っていたらしい。


「ええ? だって、ジェラール家の跡取りはまだ幼いし、サマンサ家の御子息たちは危ないし…。帝国内の貴族で皇女と釣り合う家はオルシェくらいだったからね」


ベルンハルトは自分が一番の夫候補だったのだと語ると、クローディアをローレンスの元へとリードした。パートナー交代の時間だ。

クローディアは頭に挿してある花を一輪抜くと、ベルンハルトの胸ポケットに挿し入れた。


「ふふ、そんな未来もあったのかもしれないわね」


ベルンハルトの左胸に紫色の薔薇が咲いた。国の象徴でもあり、国旗にも描かれているサイレントローズという花だ。


──もしもあの時、フェルナンドに助けられていなかったら。そのまま時を重ね、いつか二人は結ばれていたのかもしれない。


「どうかしたのかね? ディア」


力強く身体を引かれたクローディアは、二人目のパートナーとなった兄・ローレンスを見上げて微笑んだ。


「いいえ。ベルの背が伸びていたから、少し驚いてしまって」


ついこの前まで目線の高さは同じだったわ、とクローディアは懐かしむように言う。


「ははっ、何を言うのかね。公子は男だ。これからうんと伸びて、ディアのことなど見下ろしてしまうよ」


僕のようにね、とローレンスはクローディアの耳元で囁くと、くるくるとクローディアの身体を回した。

急なターンにクローディアは驚いたが、こんな風に踊れる相手はローレンスだけだったから、この際楽しんでしまおうと思い、控えめにはしゃぐ。


「もうっ、ローレンス兄様ったら。いつも音楽に逆らうんだからっ…」


「いやぁ、僕は決められた道の上を歩くのが大嫌いでね」


古くから続く慣習や定めなど、こうあるべきだとされているものが嫌いなローレンスは、いつだって自分に正直に生きている。

道は自分で決めるのだとローレンスは語ると、クローディアを横抱きにして回りながら、銀髪の皇子の元へと連れていった。


「ローレンス兄様っ…目が回っ…」


目を回したクローディアだったが、柔い温度に抱き止められた。


「…大丈夫かい? ディア」


視界いっぱいに映るのは、この世の誰よりも自分のことを愛してくれた大好きな兄・エレノスだ。

クローディアと同じくオルシェ公爵夫妻から贈られた衣装を着ているエレノスは、今日は一段と煌びやかで素敵だった。


「…お兄様」


クローディアは無性に泣きたくなった。

嫁ぐということは、エレノスと離れ離れになるということ。いつだって自分を守ってくれたこの人から離れ、別の人の手を取り、今度は家族を守る立場にならなければならないのだ。


生まれた日に母を亡くしたクローディアにとって、エレノスは親代わりでもあった。寂しげに微笑むエレノスを前にしたら、胸が痛くて堪らない。

今にも涙をこぼしそうなクローディアの頬に、エレノスはそっとキスをすると、愛する妹の手を取った。


「私と踊って頂けますか? クローディア」


今宵の貴女の姿を目に焼きつけたいのです、とエレノスは微笑む。


「ええ、喜んで」


クローディアはエレノスの元までエスコートしてくれたローレンスにも花を贈ると、ゆっくりとした足取りでステップを踏み出した。


美しい兄妹が踊り出した瞬間、誰もが時を止めて二人に見入った。

揃いの衣装を身に纏う二人の姿は、冬景色から飛び出してきたかのように儚くて美しく、まるで出逢うべくして出逢った恋人のようだと人々の目に映っていた。


「…いつの間にか、こんなに大きくなっていたんだね」


ふいにエレノスはそう呟いた。きょとんとした目で見上げてくるクローディアに優しく微笑みかけると、出かかった言葉を飲み込む。


クローディアが生まれた時から誰よりも一番近くで見守ってきたエレノスは、ルヴェルグやローレンスよりも長い時間を共に過ごしてきた。

生まれた日に母を失い、自分が誰なのか理解するようになる前に父を失ったクローディアは、両親からの愛というものを知らないが、それがなくとも幸せだったと笑ってくれる優しい子に育った。


それは常に他者を思い遣り、どんな言葉をかけたら相手がうれしいと感じるのか、どんなことをしたら喜んでくれるのかを考えながら生きてきたエレノスの姿を見て育ったからだろう。

自分の命と引き換えにクローディアを産み、誰かを愛する喜びをくれた亡き母に想いを馳せながら、エレノスはクローディアの手を離した。


「さようなら、クローディア」


エレノスはその言葉とともに自らクローディアの髪から花を抜き取り、それを手にローレンスらがいる後方に下がっていった。

その姿を見て、クローディアの瞳から一雫の涙がこぼれ落ちた。泣くまいと必死に堪えていたが、誰よりも近くで見守ってきてくれたエレノスに手を離されたのだ。寂しくてたまらない。


「──我が妹、クローディアよ」


威厳のある声がホールに響き渡る。クローディアは指先で涙を拭い、きゅっと唇を引き結んで振り返った。

そこには皇帝である兄・ルヴェルグと、伯父のラインハルトが来ていた。


「久しいですな。クローディア皇女殿下」


「伯父様っ…!」


世間ではオルシェ公と呼ばれているラインハルトは、ベルンハルトの父であり、クローディアとエレノスの母・ソフィア妃の兄だ。

オルシェ家の特徴とも言える銀髪に濃いグレイの瞳を持つラインハルトは、若かりし頃は帝国一の美男子と謳われていたそうだ。


「ドレスはお気に召して頂けましたかな」


クローディアはその場でくるりと回り、にっこりと笑った。無数のシャンデリアの光を受けてキラキラと輝くこのドレスは、オルシェ公爵夫妻からの贈り物なのだ。


「はい、伯父様。エレノスお兄様とお揃いでとても気に入りました。ありがとうございます」


「それはよかった。あの小さかった皇女様が立派に成長され、ソフィアもさぞ喜んでいることだろう」


伯父として、帝国の一貴族としてクローディアの成長を遠くから見守っていたラインハルトは、常に沈着冷静で厳かな人だった。いつも明るく好奇心が旺盛なベルンハルトとは正反対だ。


「本来ならば、これは皇女の父親の役目だが…」


ラインハルトが片手を挙げると、どこかで控えていたらしい使用人が長方形の藍色の箱を運んできた。その箱の中央にはオルシェ公爵家の家紋が描かれていた。


ラインハルトはその箱を開け、ゆっくりと中身を取り出すと、クローディアの頭に優しく被せた。それは真っ黒なベールだ。


「私が代わりにやると言ったのだが、ラインハルトがどうしてもと言って聞かなくてな」


クローディアはそっとベールに触れた。これは古きから続く帝国の儀式の一つで、皇家を出る皇女に魔除けの意味を持つベールを贈り、幸せを願うというものだった。

色が黒いのは、嫁ぎ先であるオルヴィシアラ王国にとって、黒が慶事を表す色であるからだろう。

花嫁衣装は向こうの慣習に従ったものを着ると聞いていたから、クローディアはあまり驚かなかったが、ラインハルトが代役でこの儀式を行ったことには吃驚していた。


「──アウストリア帝国皇女、クローディアに幸福あれ」


両手を前に、天に何かを乞う素振りをしながらそう言い放ったラインハルトに倣い、全員が「幸福あれ」と唱えた。



凡そ百年ぶりに皇女を他国の皇族に送り出した帝国は、この日を記念日とし、のちに結婚の日取りとする夫婦は星の数ほどになったそうだ。

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