皇女(6)
建国千年祭の日から半月が経った頃、アウストリア帝国に一つの文書が届いた。それは帝国の東側にある、隣国オルヴィシアラ王国からのもので、王太子フェルナンドが帝国のクローディア皇女に結婚を申し込む旨が記されていた。
「──突然呼んですまないな、ディア」
ルヴェルグに呼ばれ執務室を訪れたクローディアは、そこに兄たちが勢揃いしていることに驚いた。皇帝であるルヴェルグと二人きりで話すと思っていたのだ。
「いいえ。私にお話とは何でしょうか?」
執務室内に入ると、エレノスはクローディアを手招きしソファに座らせた。兄たちは皆今日の公務を終えたのか、ラフな格好をしていた。
「実は隣国のオルヴィシアラから縁談の申し込みがあったのだ。相手は王太子フェルナンドだ」
ルヴェルグはトン、と指先で机を弾いた。机に腰掛けるようにして話を聞いていたローレンスは、文書らしきものを手に取るなり眉を寄せていた。
「……却下しましょう、兄上。こんな紙切れで求婚する男など、ディアに相応しくない」
あからさまに嫌そうな表情をしているローレンスを見て、ルヴェルグは肩を揺らして笑った。
「ローレンスよ、国を跨ぐ皇族同士の婚姻は、このような正式な文書から始まるのだ」
「この紙切れにどれ程の価値があるのですか?」
隣国からの文書をただの紙切れだとローレンスは鼻で笑う。
エレノスは阿呆な弟を兄に代わり怒るべきか、笑って流すか悩んだが、クローディアの前だからやめた。クローディアの前では笑みを絶やさない優しい兄でありたい。ローレンスのことは後でひっそりと呼び出して叱ることにする。
「オルヴィシアラといえば、あの海域は良質な真珠が採れますね。魚が新鮮で美味しかった記憶があります」
生まれてから一度も国外に出たことのないクローディアは、オルヴィシアラという国がどんな場所か知らないだろう。そう思い立ったエレノスは、持ってきた史料をいくつか広げてクローディアに見せた。
大陸の最東にあるオルヴィシアラは、このアウストリア帝国に次いで広い国だ。面積は帝国の半分もないが、三方が海に囲まれており、漁業が盛んな国だった。
「美しい国だが、魚は我が国でも十分に採れる。真珠も必要ではない。…いつも通りに断ろうと思うのだが、ディアはどう思う?」
クローディアは意見を求められたことに驚いた。帝国の皇女であるクローディアは、これまで数えきれないくらいに縁談を申し込まれてきたが、一度もどうするか尋ねられたことはなかった。皇族の婚姻は皇帝の一存で決めることだ。当人の意志など関係ない。
「私はお受けしたいと思っております」
ルヴェルグは目を見張った。その隣にいるローレンスは口を開けたまま固まり、手から文書を落としてしまっていた。
「……ディア。本気で言っているのかい?」
エレノスは夢が覚めたような顔つきでクローディアを見た。てっきり嫁ぐ意志はないと言うのだと思っていた。
ついこの間まで、ずっと兄と一緒にいると泣いていた子供だったのに。
クローディアは悲しそうな顔をしているエレノスの手を取ると、自分の頬に寄せた。この温かい手にずっと守られてきたが、そろそろ兄離れをして独り立ちしなければならない。
「ディアよ、私はそなたの家族だが、この国の皇帝でもある。皇帝として、皇女を何の利益もない国に嫁がせるのは気が進まない。…なぜ受けようと思ったのか、聞かせてくれるか?」
クローディアはエレノスの手を離し、ルヴェルグに向き直った。
「…建国千年祭のあの日、フェルナンド王太子殿下は私を助けてくださいました。そうして、真っ直ぐに私を見て、言葉を贈ってくださったのです」
どのような言葉を贈られたのか、ルヴェルグは尋ねなかった。嬉々とした表情で一緒に踊ったこと、一粒の真珠をもらったと語るクローディアを見れば大方想像はつく。
だが、皇宮という箱庭で大切に育てられたクローディアの世界は狭く、家族とベルンハルト一家以外の人間とは殆ど接点を持っていない。
外に出て初めてその目で見て、耳で聞いたものならば、余程のものでない限り何だって綺麗に思えてしまうだろう。
そう考えているルヴェルグは、皇帝として気が進まないと言っておきながら、本当はクローディアのことが心配で堪らないだけなのだ。
「人間という生き物は、心なくともいくらでも愛を囁ける。何を言われたのかは分からないが、本心からのものだと受け取ったのか?」
「はい、陛下」
お兄様、とルヴェルグのことを呼ばなかったことに驚いたのは、エレノスだけだった。
「わたくしは、オルヴィシアラに嫁ぎたいと思っております」
誰かの導きではなく、初めて自分から立ち上がったクローディアは、ゆっくりとした足取りでルヴェルグの前まで行くとローレンスが落とした文書を拾い上げた。その姿を見たエレノスは声を失い、ローレンスは顔を俯かせていた。
ただ一人、ルヴェルグだけがじっとクローディアの目を見つめている。
「…そうか。そなたの思いは分かった。急ぎオルヴィシアラに使者を送ろう」
自分の意志を尊重してくれたことに、クローディアは顔を綻ばせながら感謝を述べた。
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