糸絡(5)


「──エレノス、クローディア」


そこへ、今まさに話の中で名前が出ていた人が現れた。


ふたりは弾かれたように振り返り、すぐさま敬礼をする。他人の目がある公の場以外では堅苦しいことを嫌うルヴェルグは、周辺にエレノスとクローディアしかいないことを確認すると、歩きながら話を進めていく。


「これから少し話せるか? ローレンスとラインハルトもいる」


「わかりました。伺います」


ルヴェルグ直々に話がしたいと来たのは初めてのことだ。皇帝である彼は常に忙しく、何か用がある時は来て欲しいと連絡を寄越してくるというのに、一体何事だろうか。


一行は長い廊下を抜け、敷地内の移動用の馬車に乗り込むと、ルヴェルグの私的なスペースがある離宮へと着いた。その先にある広い部屋に入ると、そこにはローレンスとラインハルト、現宰相であるグロスター侯爵の姿があった。


──ウィルダン=グロスター。

帝国の二大貴族であるジェラール家とオルシェ家に次ぐ、侯爵の地位にあるグロスター家の当主でもある彼は、本と眼鏡を愛する変わり者宰相である。


これで全員が揃ったのか、ルヴェルグは室内をぐるりと見渡すと、シックな赤いソファに身を預けた。


「すまないな、忙しいというのに。皆の意見が聞きたくて集まってもらった」


「いえ、陛下のご命令とあらば」


グロスター宰相は指先で眼鏡を押し上げ、勝ち気に微笑むと、レンズの向こうにある眼を光らせた。


「まずは無事に建国際を終えられてよかった。何から何まで私の手足となり助けてくれたことに感謝する」


クローディアは室内にいる人間をぐるりと見回してあることに気がついた。


ここにいる人たちは皆ルヴェルグの真の意味での身内だったのだ。家族であるエレノス、ローレンス、クローディアは勿論のこと、ラインハルトと宰相のグロスター侯はルヴェルグが心を開く数少ない人物であった。


「勿体なきお言葉にございます。全ては陛下の采配あってこそ」


ラインハルトは椅子の上から深みのある笑みを浮かべると紅茶に口をつけた。 


「他国から来てくれた方々は、オルヴィシアラを除いて皆帰国されましたね」


エレノスの口から出たオルヴィシアラという単語にクローディアは微かに身を震わせた。フェルナンドはまだ国内にいるのだ。


「そう、それについて皆に聞きたいことがある。現在、この城にはヴァレリアン殿下がいるのだが、ひと月ほど療養されることになった。そこで、ひと月後…殿下の身体が回復されたら、ここにいる面々で晩餐会を開こうと思っているのだが、どう思う?」


皆を集めてまで意見を求めたいことは、晩餐会の開催についてなのだろうか。クローディアは小首を傾げた。


これまでそういったことは外務官長官補佐の地位にあるローレンスと宰相と話して決めてきたことではないのだろうか。


「良いとは思いますが、ヴァレリアン殿下は大丈夫なのですか?…そういった場は苦手そうですが」


クローディアの疑問はエレノスによって払拭された。隣に座るエレノスが「殿下は我が国の皇女の恩人だからね」とクローディアにそっと耳打ちしたのだ。


(……なるほど、そういうことなのね)


皇帝の一存で決められることだが、ルヴェルグはヴァレリアンのことを聞いたから決めかねているのだろう。


「閣下の仰る通りです。ヴァレリアン殿下は滅多に人前に出られないうえ、いつも顔を隠しておられるお方。難しいかと」


「それは知っている。だが、ここはオルヴィシアラではなく、アウストリアだ。我が帝国に神はいない。神の教えとやらに則り、人を差別する人間など一人もおらぬ」


帝国は宗教国家である王国とは違い、皇帝にさえ背かなければ基本的に思想は自由な国だ。この国にいる間は自由なのだから、堂々と王国の王子として出席し、帝国の皇族たちと食事をしてほしいというのがルヴェルグの意見のようだ。


「私はヴァレリアン殿下に、この国に来てよかったと思ってほしいのだ。願わくば、いつか身分を捨てて帝国の民になってほしいとも思っている。彼の家族はいないも同然なのだろう?ラインハルト」


「…そのように聞き及んでおります。政務官の調査では」


「ならば尚更だ。全てを棄てて帝国に来ればいい。私は歓迎する」


「失礼ですが、それは同情されてのことでしょうか?」


晩餐会の開催から、王国で生きづらいのなら帝国の一員になってしまえばいいとまで話が進んだことに一時休止の札を立てたのはグロスター宰相だった。


話についていけていない皇女を横目で見遣り、まだ若き皇帝へと視線を戻す。


グロスター宰相は帝国の政界において、皇帝の次に権限を持つが、皇帝の指導者でもあった。


「…違うと言ったら嘘になる」


師の問いかけに気づくことがあったのか、ルヴェルグは今一度考え込むような素振りを見せる。何年、何十年が経っても変わらず師の言葉に耳を傾ける皇帝の姿を見て、グロスター宰相は微笑んだ。


「晩餐会の件は賛成ですが、陛下の願いは胸の内で留めていただきたく思います。いつか、ヴァレリアン殿下が…あの国にいるのが辛い、と我々に打ち明けてくださる日が来たら、その時に手を差し伸べるのが良いかと」


意見を求めるために話の場を設けておきながら、ひとりで先に進んで行こうとしていたのだ。その手を引いて留めるのは師の役目であった。


「そうだな。本人の口ではなく、他人からの情報だけで先走ってしまった。すまない」


「兄上は優しいですからね」


ローレンスがすぐにフォローを入れ、用意していたお菓子を皆に勧めることによって、室内は和やかな雰囲気に戻った。

話がついたからか、エレノスが一番に腰を上げた。


「フェルナンド王太子殿下は五日後に帰国されるそうなので、その前に食事にお呼びしましょうか?」


「ああ、そうしてくれ」


エレノスの提案にクローディア以外全員が快く頷いた。

フェルナンドの顔すら見たくないクローディアは、それを顔に出さぬよう努めながらふらりと立ち上がる。


「…私は部屋で休むわ。ごめんなさい、あまり具合がよくなくて」


フェルナンドの名が出た途端に体調不良を訴えたと思う者はいなかった。元よりクローディアは病弱だ。連日の疲れが出たのだろうと皆考えた。


俯いたクローディアへとエレノスの手が伸びる。熱がないか確かめるのか、エレノスはクローディアの額に触れ、目線を合わせるように屈むと、菫色の瞳をじっと覗き込んだ。


「…気づけなくてすまない。ゆっくり休むんだよ」


クローディアは返事の代わりに小さく頷くと、心配で堪らないという表情で見つめてくるエレノスに背を向けた。


本当は仮病なのだと言って、その胸に飛び込んで、全てを話してしまいたかった。

だが、それでは駄目なのだ。兄に甘えてばかりでは強くなれない。


そんなクローディアを見ていたローレンスは、後ろ髪引かれる思いで妹を見送るであろうエレノスの肩に手を置いて微笑みかけると、クローディアを先導するようにドアノブに手を掛けた。


「では僕がディアを送っていこう」


「頼んだよ、ローレンス」


ローレンスは個性的な笑い方をすると、クローディアと共に部屋を出て行った。残されたエレノスはクッションの下に隠していた書類の束を取り出すと、ゆっくりと息を吐いた。


「皇爵様? どこか具合でも?」


「いいや、私は元気だよ。…ただ少し、自分の不甲斐なさに嫌気が差してね」


ふ、と。エレノスは消えてしまいそうな微笑みを飾ると、窓辺に歩み寄る。その目は吸い込まれるように夕陽を映していた。


この男──皇弟エレノスは、クローディアに元気がないと自分も元気が無くなってしまうという、困った一面があるのだ。

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