糸絡(4)


「ではこれにて失礼を」


フェルナンドはクローディアの反応に満足したのか、愉しそうに笑うと部屋を出て行った。


(リアンが、オルヴィシアラの王子?)


クローディアは疲れた顔をしているリアンを見つめた。


オルヴィシアラに王子が二人も居ただろうか。クローディアの記憶では、フェルナンドは唯一の王位継承者であり、王族が揃う結婚式や宣誓式などの公式の場でもリアンの姿はなかった。


その名を聞くことも一度もなかった。だとしたら、フェルナンドとクローディアが結ばれた頃にはもう、リアンはこの世にいなかったのではないだろうか。

もしくは、ずっと存在を隠されていたか。


「…兄弟、だったのね」


クローディアの呟きにリアンはため息をこぼすと、くしゃりと髪を掻き上げた。


「言ってなかったね。俺が生まれたのはオルヴィシアラ王国の王家だよ」


自分の口からは兄弟だと言いたくないのか、リアンは自嘲めいた笑みを浮かべていた。

クローディアはリアンから目を逸らし、夕映えの空へと視線を投げた。


クローディアにとって、リアンはリアンだった。王子だとしても、それは変わらない。だが、フェルナンドの弟だったことを知った今、揺らぎそうになる自分がいた。リアンはリアンだと口にしたのは、他ならぬ自分だというのに。


「ディアはあいつを知ってるの?」


リアンの問いに、クローディアは静かに頷いた。


「…ええ、知っているわ」


フェルナンドのことなど、嫌というほど知っている。甘い言葉で人を惑わし、人を人として扱わない。そんなあの男がまた王位に就くのだと思うと背筋が凍る。


フェルナンドとの生活を思い出すだけで具合が悪くなりそうだったクローディアは、重苦しいため息を吐いた。そんなクローディアの横顔を見ていたリアンの頭にある事が過よぎる。


城下で出逢った時、自分を見て驚いたような顔をしていたこと。再会した建国際では、会いたくない人から逃げ出してきたと言っていたこと。そして──。


「ディアが言ってた会いたくない人って、あいつのこと?」


たった今、フェルナンドと会った時のあの表情は、怯えているのか、憎いのか、怖いのか、泣きたいのか──そのどれもが当て嵌まるような、そんな目で対峙していたのだ。


「どうしてそう思ったの?」


自分と目を合わせることなくそう聞き返したクローディアを見て、リアンは確信した。


「…憎くてしょうがないって顔、してたから」


菫色の瞳が揺れる。その表情に一片落ちる暗い影を見逃すことなく気づいたリアンは、クローディアとフェルナンドの関係性について考えた。


フェルナンドは公務で度々近隣の国に行くことはあったが、帝国を訪れたのは今回が初めてのはずだった。

一方クローディアは深層の姫君として知られ、片手で数えるほどしか公の場に顔を出していないと聞いている。

そんな二人に接点などあったのだろうか。


「……変だな。あいつが…兄がこの国に来たのは今回が初めてなはずなんだけど。いつ交流を?」


「それは、その……交流はないけど、噂を聞いていたから…」


「噂って? 帝国にはどんなふうに伝わってるの? 兄がああなのは俺の前だけであって、他の人の前だと普通だし…」


遠回しに“なぜあの姿の兄を知っているのか”と訊いてくるリアンに、クローディアは答えられなかった。


目が覚めたら時が戻っていて、時間が巻き戻る前はフェルナンドに嫁いで死んだのだと言ったところで、そんなの悪い夢だと言われるに決まっている。


家族になら言えたかもしれないが、目の前にいるのは他ならぬフェルナンドの弟なのだ。自分の兄に殺されたという悪夢を聞いていい顔はしないだろう。


だが、リアンはリアンだ。家族以外でクローディアのことをディアと呼ぶ唯一の人なうえ、真っ直ぐに目を見て思ったことを言ってくれる、真心を持った人間だ。


前を向くと決めた今の自分と、フェルナンドにつけられた傷が癒えない過去の自分の想いが、クローディアの心で陣取り合戦をしているかのように、じわじわと広がっている。


「…がっかりした?俺があんなやつの弟で」


リアンの声に、クローディアは突然水をかけられた小動物のように体を跳ねさせ、「違う」と否定した。


目を合わせようとしないクローディアに痺れを切らしたのか、リアンは痛む身体に鞭を打ってベッドから出ると、クローディアの両頬に手を添え、自分の方へと向かせた。


「じゃあなんで目を合わせられないの?」


否応なしにリアンと目が合う。深い青色の瞳は悲しげに揺れ、そこには泣き出しそうな自分の顔が映っていた。


クローディアはリアンの瞳が好きだ。綺麗な深い青色に何度見入ったことだろう。その目に真っ直ぐに見つめられ、言葉を交わした時間を思い返すと、優しい気持ちになれるほどに。


だが、あの青を前にすると、どうしてもフェルナンドのことを思い出してしまうのだ。彼ににつけられた傷はまだ塞がっていない。どんなに上質な薬を与えられても、今は沁みてしまうのだ。


「…ごめん、ディア」


リアンはクローディアの頬から手を離した。


「俺が悪かった。ディアのことをよく知りもしないで、ごめん。…全部忘れて」


自嘲をごまかすかのようなリアンの声に、クローディアは返事をしようとしたが、どんな言葉を掛けたらいいのか分からず、そのまま口を閉ざした。


リアンはクローディアに背を向け、ベッドへと戻っていった。まだ激しく傷が痛むのか、寝台に上がる時は顔を顰めながら傷口に手を添えていたのをクローディアは見ていたが、声は喉元で溶けて消えてしまったのか、ひとつも出てこなかった。



部屋を出ると、クローディアはその場でずるずるとしゃがみ込んだ。


──『…がっかりした?俺があんなやつの弟で』


リアンに言われた言葉が木霊する。心の中で、そうではないのだと答え、クローディアは膝を丸めて顔を埋めた。


あの男の弟だったことに驚きはしたが、リアンというひとりの男の子に変わりはない。だが、あの男の弟ならば、本当は仮面を被っているのではないかと心の片隅で疑ってしまうのだ。


リアンはクローディアのことを皇女としてでなく、一人の人間として見ていてくれたというのに、クローディアはまだ全てを飲み込むことができなかった。


どれくらいそうしていたのか分からない。訳もわからず溢れてきた涙が乾いた頃、そろそろ自室に戻ろうとクローディアが立ち上がると、進行方向からエレノスが向かって来ていた。どうやらクローディアが自室に戻っていないと聞いて、心配で戻ってきたようだ。


エレノスはクローディアの頬にうっすらと残る涙の跡に気づくと、端正な顔を悲痛に歪めた。


「どうして泣いていたんだい? ディア」


「…お兄様。どうしてここに?」


誤魔化すようにクローディアはエレノスの服の裾を掴む。それは何も聞かないでという幼い頃からの癖だった。


エレノスは今にもまた泣き出しそうなクローディアにそっと微笑みかけると、服を掴む手を自身の腕に回させ、ゆっくりとした足取りで歩き出した。


「ヴァレリアン殿下の様子が少し気になってね。殿下は家族とは不仲だと聞いていたから、王太子が殿下に逢いたいと泣いていたことに驚いて。面会は大丈夫だったのか気になって来てしまったが…」


エレノスはヴァレリアンの様子よりも、隣で俯いているクローディアの涙の理由が気になって仕方がなかった。ヴァレリアンと何かあったのだと察することはできるが。


「……不仲だと存じていたのに、お通しするなんて…」


「すまない、ディア。日を改めるよう提案したんだが、兄上も来てね。だから通してしまった。やはりまずかったかい?」


クローディアは首を横に振った。怪我をした弟を見舞いたいと兄が泣いて頼み込んできたら、家族思いなルヴェルグは同情して通してしまうはずだ。

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