希求(1)
それから館内を一通り見て回った二人は、テラスで軽食を取ってから帰路についた。外はもう日が沈み始めており、夕陽が二人のひと時の終わりを報せているかのようだ。
このまま特に会話もなく終わってしまうことに、クローディアは寂しさを感じていたが、頬杖をつきながら外を眺めていたリアンが突然馬車を止めるよう指示を出した。
「ちょっと寄り道してもいい?」
悪戯を企んでいそうな子供のように笑うリアンが、クローディアに手を差し伸べる。その手に自分の手を重ねたクローディアは、馬車を降りた先に飛び込んできた景色を見て息を呑んだ。
「わあ……!」
馬車を降りると、外は橙色で満ちていた。西空は淡い赤黄色に染まり、その下に息づく木々や一面の小麦畑は金色に輝いている。
「ごめん。ただ通り過ぎるのが勿体ない気がして、降りちゃった」
「謝らないで、リアン。こんなに綺麗な夕陽、初めて見たわ」
リアンはクローディアに気に入ってもらえたことが嬉しかったのか、柔らかな微笑みを浮かべると手を引いて麦畑の間にある細道を歩き出した。
帝国ではもう時期麦の収穫の季節となる。そうすれば大規模な収穫祭が開かれ、初物の葡萄や柿、林檎など、たくさんの美味しいものが市に並び出すだろう。
ふとクローディアは足を止めた。道の脇に、枯れた花が落ちていたからだ。それを屈んで拾い上げたクローディアは、触れたら崩れ落ちてしまいそうな茎にそっと触れると風に乗せた。
「…もうアルメリアは来年まで咲かないのね」
唐突に春の花の名を口にしたクローディアを、リアンは不思議そうな目で見る。
「アルメリアが好きなの?」
リアンの問いかけに、クローディアはゆっくりと頷いた。
「ええ、とても。…愛しているわ」
いや、愛してあげたかった、の方が正しいかもしれない。
クローディアは泣きたくなるような気持ちでリアンの青い瞳を見つめた。
夢の中で逢えた大きくなったあの子は、クローディアと同じ銀髪で、大きな菫色の瞳だった。フェルナンドの血を引いた要素はひとつもない容姿をしていた。
他人の目を真っ直ぐに見つめて話す子だった、と思う。そう、目の前にいるリアンのように、澄んだ瞳をしていた。
「…なら、来年の楽しみにしときなよ」
リアンの優しい声にクローディアは笑って頷いた。そのまま手を引かれるがままに、畦道をゆっくりと歩き進む。
そうしてしばらく歩いていると、少し先に小さな教会が建っていた。その近くでは子供たちが楽しそうにはしゃいでいて、クローディアとリアンに気づくと駆け寄ってきた。
「お姉ちゃんとお兄ちゃん、髪の毛とっても綺麗!」
歳の頃は五つか六つくらいだろうか。小さな子供の手を引いてやって来た十歳くらいの女の子は二人を見るなり、瞳を輝かせている。
クローディアとリアンを囲うようにしてやって来た二人の子供は痩せていた。身形は土で薄汚れており、手にはあかぎれがあった。
「ふたりはお城から来たの?」
その質問にクローディアは返答に困ったが、リアンが「違う国から来たよ」と答え、少女の頭を優しく撫でた。
少女は撫でられたことが嬉しかったのか、痩せこけた頬を綻ばせると、クローディアをじっと見つめた。
「あのね、たまにここに来てくれるお兄ちゃんもね、お姉ちゃんと同じ色の髪なんだよ」
「……え?」
クローディアと同じ髪色の男など、この帝国にはオルシェ公爵家の直系の血を引く人間しかいない。ということは、兄であるエレノスかベルンハルト辺りの人間がここに通っているのだろうか。
「見たこともないお菓子をね、持ってきてくれるんだよ」
少女は「こーんなの」と両手で輪っかを作る。それと同時に、少女の隣にいる幼子がお腹が空いたと泣きそうな声で言った。
幼子が泣き出しそうな顔をしたのを見て、リアンはクローディアの手を離し、その場でしゃがみ込むと、道の脇に咲いていた野花で花冠を作って幼子の頭の上に乗せた。
「…また、来るから。その時は一緒に野菜を植えよう」
お腹空いたと言った子供に、何故そのような約束をするのだろうか。お腹いっぱいになれる食糧を持っていけばいいのではないだろうか。
クローディアはそう思っていたが、リアンの言葉に子供たちが満遍の笑みを浮かべて去って行くのを見て、開きかけた唇を閉じた。
子供たちが教会へと戻ったのを見送った後、リアンはコートのポケットに手を突っ込んだ。その目は教会へと向けられている。きっと先ほどの子供たちのことを考えているのだろう。
「…豊かな公爵領の教会の子供でも、満足に食事が行き届いてなさそうだね。となると、国境辺りはもっと酷いんだろうな」
ここグロスター領は帝都と隣接しており、国土の中央に位置している。広大な麦畑や果樹園がいくつもあり、帝国一豊かな土地と言われているが、教会で面倒を見ている身寄りのない子供たちは戦時中でもないのに痩せていた。
「どうして国境辺りは酷いの?」
クローディアは皇女でありながら国の情勢に疎かった。そのことをリアンは一瞬不思議に思ったが、知らないから知りたいのだというクローディアの意志を感じたリアンは、落ちていた枝を拾うと地面にざっくりと大陸の地図を描いていった。
「帝国はここね。ここからここまでだから、大体大陸の半分が帝国の国土」
リアンはその図の真ん中に線を引いた。その線より左側はほとんどが帝国で、上側には四つ、右側にはオルヴィシアラを含めて三つ国があるという。
「北と東はともかく、西や南は数年前までは帝国に属してなかったわけだから、国土の一部ではあっても統治が行き届いてないんだよ」
リアンが言った国境というのは、先の戦争で勝ち得た西と南側の領土であり、統治が行き届いてない場所だという。おそらくこれから誰が治めるのかを議論していくのだろうとリアンは言った。
「…どこも変わらないね。身寄りのない子供たちは、帝国にも居たんだ」
風で落ち葉が舞い踊る。夕方の淡く滲むような長い日差しが、リアンの横顔を寂しく照らす。その目は教会の前で駆け回る子供たちを見据えたままだ。
「俺は王家に生まれたから、食べるものや寝る場所に困ったことはないけど、あの子たちは…」
リアンはぎゅっと握り拳を作った。その手は白くて傷一つないクローディアの綺麗な手とは違い、王族なのに畑や水仕事でもしているような手だった。
「…恵まれてたんだな、俺。こんな髪でも」
そう言って、リアンが唇を噛み締めたと同時に、クローディアはリアンの手を握った。突然灯った熱に、リアンは驚いて目を見張ったが──その柔い温度にリアンの心は包み込まれた。
「リアン」
深い青の瞳が、クローディアへと動く。フェルナンドと同じ色のそれを向けられることに、胸の高鳴りを覚えたのはいつからだろうか。
(もしかしたら──)
リアンがゆっくりと深呼吸をする。そうしてクローディアの手を握り返すと口を開いた。
「ねぇ、ディア。子どもたちが幸せに暮らせる未来を夢見てるって言ったら、笑う?」
今にも泣き出しそうな顔でリアンは語る。
その声はもう、震えてはいなかった。
「笑うわけないじゃない。素敵な夢だわ」
「でも、夢は所詮夢だからね。叶えなければ意味がない。…せっかく王子として生まれたのに、この髪のせいで何もできないのが悔しいな。…黒髪で生まれてたら、俺も兄のように力があったのかな」
そんな──生まれ持ったものに理由をつけて蔑むのはオルヴィシアラだけだ。帝国ならば例え黒だろうと赤だろうと、どんなに変わった色を持って生まれようと、生まれてきてくれてありがとうと優しく笑いかけるだろう。
オルヴィシアラで生まれてしまったがために、不遇な目に遭ってきた人はリアンの他にもいたはずだ。
(…オルヴィシアラでなかったのなら)
ふと、クローディアの頭にあることが過ぎる。
リアンが王国の王子である限り、その夢が叶わないのなら、王国の王子ではない別の立場の人間になればいいのではないだろうか。
例えるならば、王国の王子よりも上の──帝国の皇女の夫に。そうすればリアンは大陸一の国力を持つ国の皇族の一員となり、その夢を叶えることができるだろう。
そしてクローディアは、フェルナンドが言っていた悍ましい“運命”とやらに抗うことができる。
(…名案かもしれない、これは)
フェルナンドと結ばれるのが運命ならば、そうなる前に別の人間と結婚してしまえばいい。ただしそれは誰でもいいというわけではなく、互いに利益があり、尚且つ皇帝を納得させられる理由があってこそだ。
意を決したクローディアはリアンの目を真っ直ぐに見つめる。
「──リアン。あなたの夢を叶える手伝いがしたいわ」
「どういうこと?」
「代わりに、私の力にもなってもらいたいの」
リアンの瞳の色が濃くなる。信じられないとでも言いたげに見開かれたそれは、大きく揺れ動いていた。
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