再会(3)
──『貴女を一目見た時から、心を奪われてしまいました。我が妃になっては頂けませんか? クローディア皇女殿下』
この世で一番会いたくもない男の声が、姿が、あの時の記憶が蘇る。
ふわりとたなびく闇色の髪、青い瞳、弧を描く唇。甘い言葉でクローディアの心を捕らえ、騙し、籠の中に入れてころした。
(──…フェルナンドっ…)
クローディアは震える唇を噛まぬよう、平静を装いながら顔を上げた。
そこには、あの日と同じ姿のフェルナンドが立っている。その口元には笑みが浮かんでいる。きっと、その仮面の下ではどのような手を使って蝶を捕らえるか考えているのだろう。
「これは失礼いたしました。まさかクローディア皇女殿下だったとは」
こうなるのを分かっていて、真珠が自分の足元に転がるよう落としたのではないだろうか。帝国の皇女と接点を作るために。
「御目に掛かれて光栄でございます、クローディア皇女殿下。…噂以上にお美しい」
フェルナンドに挨拶を返さないどころか、無言で固まっているクローディアを見て、周囲の人間は一体何事かと囁き出した。
絶世の美女、深窓の姫君などと謳われているクローディアだが、賓客に挨拶すらできない人間なのかと陰口を言い出す者もいた。
沸々と漂い始めた陰鬱な空気に耐えられなかったクローディアは床から足を剥がした。
突然怯えたようにその場から後退し始めたクローディアを見て、ラインハルトが何かを言ってきたが、その場から逃げるように走り出した皇女の耳には届かなかった。
一刻も早く、ここから遠い場所に行きたい。今のクローディアの頭にはそれしかなかった。
ラインハルトの指示で追いかけて来たのであろう護衛が追いつき、肩にショールを掛けようとしてくれたが、クローディアはそれを振り払った。
護衛の騎士に暫くの間自分から離れるよう命じ、庭園へと足を踏み入れる。そうして噴水の前で崩れ落ちたクローディアは、訳もわからずに溢れてくる涙を落としていった。
会場のどこかにフェルナンドがいることは分かっていた。だからあの日と同じ轍を踏まぬよう、ローレンスに着いていくことを選んだというのに、まるで運命とでも言うかのようにフェルナンドは現れた。
クローディアは今度もフェルナンドから逃げられないのだろうか。
あの腕に捕まり、物のように扱われ、閉じ込められ、またあの子を生んで──命を落とすのだろうか。
いくら違う道を選んで進んでも、結局また同じ場所に行き着くのだろうか。
(だとしたら、何のために私は──)
カサ、と。すぐ側から草を踏む音が聞こえたクローディアは、慌てて目元を拭った。
視界に入ったのは白いブーツ、紺色のロングコート。それを辿るように顔を上げていくと、深い青色の瞳と視線がぶつかる。
「……ディア?」
その声と姿に覚えがあったクローディアは、何度か瞬きをしたのちに声を絞り出した。
「………リ、アン…?」
目の前には、つい昨日会ったばかりの少年がいた。
リアンはクローディアが泣いていることに気づくと、顔を隠すように被っていたフードを下ろし、その場で膝をついてクローディアの両頬に手を添える。そして顔を覗き込むと、じっとクローディアの目を見つめた。
「……酷い顔。何があったの?」
リアンの深い青色の瞳を見てフェルナンドを重ねてしまったクローディアは、ふいっと顔を逸らす。
「なんでもないわ、目に埃が入っただけよ」
嘘をつけ、とリアンは困ったように笑うと、クローディアの手を引いて人通りからは見えない場所へと連れて行った。
その手は驚くほど冷たかった。きっとホールの外に長い時間居たのだろう。畏まった服装を見れば、招待されて来た客だということは分かる。なのに何故、手が冷たくなるまで外にいたのだろうか。…フードを被ってまで。
気づけばクローディアは、フェルナンドではなくリアンのことを考えていた。
「…リアンは貴族の方だったの?」
リアンはクローディアの涙を拭いたハンカチを仕舞うと、そのまま手をポケットに突っ込んだ。そうして吸い込まれるように空を見上げ、眩しそうに目を細める。
「貴族ではないな」
貴族ではないのなら何なのだろう。見た目からして、同じ年頃であろうベルンハルトに比べると、上流階級の人間にしてはなんだか変わっている。
「俺のことなんてどうでもいいよ。…で、なんで泣いてたの?」
自分の話をするのが嫌いなのか、リアンはクローディアに話題を変える。そしてその隣に腰を下ろすと、赤くなった目元を痛ましげに見つめた。
クローディアはゆっくりと顔を上げ、フェルナンドと同じ色の瞳を見つめた。まだこの目で見たことがない海の色だ。
どこまでも広がっていて、たくさんの魚が泳いでいるのだと、あの人は言っていた。穏やかだった頃のことを思い出してしまい、ツンと胸が痛んだ。
「……会いたくない人に、会ってしまっただけよ。なんでもないふりをしようとしたけれど、逃げ出して来てしまったの」
分かっていたのに、いざ目の前にしたら逃げ出してしまっていた。強くならなければならないのに。前を向いて歩き出さなければならないのに。
「…会いたくない人、ね」
リアンのその言葉をさいごに、しばらくの間、二人は無言のまま向き合っていた。
重く、長い沈黙がふたりの間に流れ、やがて先に口を開いたのはリアンの方だった。
「…顔も見たくない人っているよね。俺なんて見たくない顔ばかりだから、パーティーなんて大嫌いだよ」
だから中庭でサボっていたのだとリアンは笑うと、横髪を耳にかけた。
「窮屈だよね。みんな仮面被って、相手の腹の中探ってさ」
リアンが誰のことを言っているのかは分からないが、その言葉にフェルナンドの姿を脳裏に浮かべたクローディアは小さく頷く。
「そういう世界なんだっていうのは分かってるけど、やっぱり俺には無理だ」
「来たくなかったの? リアンは」
「できればね。相手が帝国だから仕方なく参加しただけ。早く帰って昼寝がしたいよ」
クローディアは笑った。自分の周りにはリアンのように思ったことをそのまま言う人間がいないから新鮮だった。
真っ直ぐに他人の目を見て、思ったことをはっきりと伝えられるリアンのことを羨ましくも思った。自分もそうだったらいいのに、と。
ようやく笑えるようになったクローディアを見て、リアンは安心したように微笑んだ。
「笑ってなよ。そのままずっと」
柔らかな声音に、クローディアの鼓動が早鐘を打ち始める。自分へと向けられるリアンの微笑みが美しくて、肺の辺りがぎゅうっと締め付けられるように痛んだ。
「変な顔してたら、せっかくの美人が台無しになるしさ」
「へ、変な顔…?」
変な顔とはなんだ、変な顔とは。もう涙は止まっているというのに。
もしや自分が気づいていないだけで、変なところがあるのではないかとクローディアは慌て出した。
そんなクローディアを見てリアンはくすくすと笑うと立ち上がる。
「……あ」
そうリアンが声を上げると同時に、ホールからワルツの前奏が流れ始めた。それを聞いたクローディアは、ハッとした顔をして立ち上がる。
「…どうしましょう」
突然立ち上がったクローディア見て、リアンは不思議そうに首を傾げた。
「……もしかして、俺と同じくデザート食べ損ねた?」
デザート以前にお昼すら食べていないと言いかけたが、クローディアはゆっくりと深呼吸をして言葉を封じ込めた。
どうもリアンと話していると調子が狂うのだ。
クローディアはどうするべきか迷っていた。
自分は主催国の皇女だ。おもてなしをする側である為、会場に戻らなければならない。だが、戻った先にはフェルナンドがいる。
あの人を見て、なんでもないような顔をしていられる自信がなかった。今はまだ、あの辛い日々が昨日のことように思い出せてしまうから。
しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。中々戻らないことを兄たちが心配しているはずだ。一体どうしたものだろうか。
「あーもう、しょうがないな」
悩むクローディアへと、リアンは手を差し出した。それは傷ひとつない綺麗なクローディアのものとは違い、所々あかぎれや切り傷があった。
「──お手をどうぞ」
「リアン…?」
「何を悩んでるのか知らないけど、堂々としてた方がいいよ。でないと足元を掬われる」
この世界は狐と狸で溢れてるから、とリアンは付け加えると、クローディアの手を掴んだ。そうして菫色の瞳を真っ直ぐに見つめ、躊躇いがちに口を開く。
「こんな格好つけたことしてるけど、俺だってあそこから逃げてきた身だから。ひとりは怖いけど、ふたりなら多少マシでしょ?」
だから一緒に戻ろうよ、と。そう言って、リアンはクローディアの手を引いて歩き出した。
中庭を抜けて人通りのある広い回廊に出ると、リアンはクローディアの手を上へと持ち上げ、女性をエスコートする形へと変わる。そのどこかぎこちない動きが新鮮だったクローディアは、自然と笑みを浮かべていた。
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