交差(3)

クローディアは目を伏せた。

背かれたくなかったのなら、そのきっかけとなったクローディアの死をなぜ願ったのだろう。そう仕向けたのは他ならぬフェルナンドのはずだ。


「帝国の力をもって、大陸を支配下に置くのが私の夢だった。そのためのアルメリアはお前が死んだ後に帝国に奪われ、仲間には裏切られ、散々な人生だったぞ」


軽々しい口調に、クローディアは沸々と怒りを沸き上がらせた。自分だけでなく我が子──アルメリアまでをも道具にしようとしていたとは。


「だが、今度こそ成功させる。お前はまた私の元に来るのだからな」


嬉々とした表情でそう語るフェルナンドを、クローディアは唇を噛み締めながら見つめ返す。そこにはもう泥々とした感情はなく、ある決意が生まれていた。


「行かないわ。絶対に」


クローディアはアルメリアに未来を託されたのだ。

自分のいない未来と引き換えに、あの子は平和を願っていた。ならばクローディアがすべきことはただ一つだ。


──もう二度とフェルナンドとは生きない。私利私欲に満ちた男の手は取らない。


「アルメリアに逢いたくないのか? あいつは私とお前の子。私の子種。お前の腹から生まれた子だ。私以外の男とは成せないぞ?」


決意を揺さぶるべく、フェルナンドはクローディアの細い腰に手を添え、無理やり引き寄せる。その気持ち悪い手つきにクローディアは顔を顰めた。


「やめて!触らないでっ…!!」


触れられたところが熱い。迫りくる唇から逃れようと、クローディアはフェルナンドの胸を押そうとしたが、もう片方の手も掴まれてしまった。


「ああ、そのように抵抗するお前も新鮮だな。それはそれでいい」


フェルナンドはクローディアの両手首を上に上げ、片手で押さえつけるようにし、空いた方の手で胸を乱暴に掴んだ。そうして高らかに笑うと、クローディアを芝生の上へと押し倒す。


「やめて、離してっ…!!いやぁっ…!!!」


クローディアは精一杯声を張り上げたが、誰も駆けつけてくれなかった。所用を命じた使用人はまだ来ないのだろうか。護衛をしているはずの騎士や見回りの兵はどこへ行ったのだろう。どうしてこの声は誰にも届かないのだろう。


「暴れるな、クローディア。これは神に定められし運命の子…アルメリアを迎えるための儀式なのだ」


フェルナンドは息を荒くさせると、クローディアの白い肌を暴くべく、胸元のリボンへと手を掛けた。


──その時だった。


突然上からバシャリと降ってきた水が、フェルナンドをずぶ濡れにした。クローディアにも少し掛かったが、フェルナンドが覆いかぶさるようにしていたからさほど濡れてはいない。


「………何のつもりだ」


ゾクリとするくらいに低い声を出したフェルナンドはゆらりと立ち上がると、殺気が籠った目を後方に向ける。そこには石畳みの階段があり、それを登った先には人影があった。


「──何してるの、ディアに」


夜空に聳える月のような髪が揺れている。フェルナンドを見据えるその瞳には軽蔑の色が浮かんでいた。


「………リアン…」


か細い声を聞いたリアンは握り拳を作ると、フェルナンドの後方で倒れているクローディアへと駆け寄った。


「ディアッ、怪我は!? 何かされた!?」


血相を変えてクローディアの元へとやって来たリアンは、まだ建国祭の時の傷が痛むのか、片手で傷口があるところを押さえていた。


「触られただけ、だから…大丈夫よ」


クローディアはリアンのように刃物で傷つけられたわけではなく、擦り傷一つない。ただ触られただけだ。

だというのに、震えは止まらず手足に力が入らない。


リアンはぎゅっと唇を噛み締めると、クローディアの脇の下に手を入れ、身体を起こすのを支える。そして厳しい目つきでフェルナンドを見ながら立ち上がった。


「ディアに何をしたの?」


「私に話しかけるな。神に嫌われし者が」


リアンの問いかけをフェルナンドはばさりと切り捨てると、濡れた前髪を掻き上げた。うんざりとしたような表情でリアンを一瞥すると、リアンの後ろで震えているクローディアを見て満足そうに笑う。


「…口をひらけば神、神。その神に祈りを捧げて、一体何の得があるわけ?」


リアンは羽織っていたブランケットを脱ぐと、茫然としているクローディアの肩にそっと掛けた。


「貴様、神を侮辱するのかっ…」


「知らないね、神なんて。その神のせいで不幸になった人間がどれだけいると思ってるの?」


「それが神の定めなのだろう。ならば従うほかない!」


典型的なオルヴィシアラの王家の人間──神を信じ、神に仕える僕でしかないフェルナンドをリアンは冷めた目で見つめると、重苦しいため息を吐いた。


「アンタらが祈りを捧げている神は、天災をなくしてくれたわけ? 病気で苦しむ人を救ってくれた? 子供にお腹いっぱいご飯を食べさせてくれた?」


庇われるようにしてリアンの後ろにいるクローディアは、リアンが今どんな表情でいるのか分からなかった。だが、淡々としていた声は震え、握り拳からは血が滲んでいる。


リアンは今怒りを堪えているのだ。偉大なる我らの太陽よと崇めている神とやらのせいで、理不尽な目に遭ってきた人がどれほどいるのか、リアンは身を以て知っていたから。


「神がお救いにならなかった命は悪しきものなのだ!それを定めと受け入れるのが、オルヴィシアラで生まれし者の使命!」


フェルナンドは両手を空へと伸ばすと、上を仰ぎながら声を張り上げた。その目に宿る異様な光を見て、クローディアは身を震わせる。かつて妻だったクローディアでさえ知らなかったその姿に、思わず喉を鳴らしていた。


「さあ、私と共にオルヴィシアラへ帰ろう、クローディア!!」


フェルナンドは両腕を広げ、クローディアへと向かってくる。遠いあの日のような、恍惚とした笑みを浮かべて。


だが、クローディアまであと少しのところでリアンが立ち上がり、フェルナンドの胸ぐらを掴んだ。


「ふざけるなよっ…!! 命は尊いとか、従わないから殺せだとか、言ってることとやってることが滅茶苦茶なヤツの何が神だよ!?」


「邪魔をするなヴァレリアンッ!!!」


「いい加減にしろよっ!!!」


リアンはフェルナンドを思い切り突き飛ばした。リアンを知る者なら、その細い体のどこにそんな力があったのかと問いたくなるだろう。ぜえぜえと肩で息をしながら、リアンは地面に尻をついたフェルナンドを冷めた目で見下ろす。


「俺だけならまだしも、ディアを傷つけることは許せない」


地を這うような声に、フェルナンドはごくりと唾を呑み込んだ。その出自ゆえに、誰にも逆らうことなく密やかに生きてきたリアンが感情を露わにしていることに驚きが隠せないのだ。


「……クローディアと私は夫婦となる。神が定めたのだ」


「神とやらがいるのなら、目の前に連れてきてみなよ」


「姿は見えずともすぐ傍で見守ってくださっている!それが神だ!」


リアンは目を伏せながらため息を吐くと、フェルナンドに背を向けた。


「…ほんと、変わらないね。可哀想な人」


フェルナンドは顔を歪めて「可哀想なのはお前の方だ」とリアンに吐き捨てると、脱兎の如くその場から立ち去っていった。



その姿が見えなくなった頃、リアンはクローディアに目線を合わせるように地面に膝をつくと、くしゃりと顔を歪めた。


「…兄が、ごめん」


クローディアは激しく首を横に振った。リアンが謝ることではないのに、大きな青い瞳は悲しげに揺れ、太陽を知らなさそうな白い手は微かに震えていた。


「リアンが謝ることじゃないわ」


「だとしても、兄がしたことだし、俺は弟だから…」


そう言うと、リアンは顔を俯かせた。“オトウト”は言い慣れない言葉なのか、弱々しく奏でられていた。

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