第13話 邂逅ーゲザンー

「ぬあんじゃごりゃああああああああああああっ!」


 翌朝、山小屋の目覚ましは老婆の叫びだった。

 暖かな布団の中で眠りに入っていた者たちは、この叫びで一斉に目を覚ます。

「どうしたんですか!」

 紘真は音源に近い部屋にいたからこそ、飛び起きては、イの一番で老婆の元に駆けつけた。

 スリッパも履かず素足を床につけたからか、足裏から山の寒さが熱を奪ってくる。

 ドアが開かれた隣室の前で老婆が、口をあんぐり開けた絶句の表情で立っていた。

 部屋から入り込む冷たい外気に身体を震わる紘真が、室内を覗けば、室内の惨状に絶句するしかない。

「これは、酷い!」

 ベッドはひっくり返り、布団から無数の綿がこぼれ出ている。壁には引き裂いたかのような傷が無数にあり、窓は外へと突き破る形で割られ、冷たい外気を吹き込ませていた。

「クマでも暴れたのか? いや違う」

 妙だと紘真は自問して自答する。

 クマに襲われた経験がある身として、室内に血痕がないのは変だ。いや、仮にクマが外から侵入して暴れたのならば、窓ガラスは室内に散乱しているはずだし、悲鳴一つあっていいはずだ。なのに昨晩、悲鳴を聞いた記憶はない。これだけの惨状、ベッド一つひっくり返すにも、窓ガラスを割るにしろ、相応の音が響く。隣室の紘真だけでなく誰一人気づかなかったのか、疑問しか出ない。

「あんの恩知らず共が!」

 老婆は腹を立てては、地団駄で床を何度も踏みつける。

 我が者顔で家に押し寄せ、泊まるだけ泊まれば、荒らして出て行くのだから、老婆の感情は当然のものだ。

「痛っ!」

 割れた窓から外気が吹き込んだ時、紘真の左腕に静電気のような痛みが走る。痛みは一瞬、次いでくすぐったさが左手首に伝わってきた。差し込まれる日の光に反射して細い線が見える。

「糸?」

 指で掴んで見れば細く透明な糸だった。蜘蛛の糸だろうと紘真は風に流す。

「なんの悲鳴だ?」

「どうかしましたか?」

 怒れる老婆を紘真がたしなめんとした時、大学生や学者カップルたちが、ようやく部屋からやってきた。そして誰もが室内の惨状に驚くのであった。


「まったく恩知らず共め!」

 老婆の機嫌は朝食の席であろうと鎮まらず。

 テーブルを挟んで誰もが朝食をとっているが、部屋の惨状もあってか空気は重い。

 そんな中、老婆は一人、おにぎりをほおばっては、昨晩の余った野菜や肉片で作った豚汁で流し込む。

「んむ、美味いのうこれ」

「昨日の鍋の残り物で作ったんですけど、ありがとうございます」

 作ったのは紘真である。

 朝食メニューを提案したからこそであった。

 美味い飯は人を笑顔にする。老婆の機嫌も少しは良い方向に傾いていた。

「おばあさん、あの部屋、どうするんですか?」

 おにぎりを口にした野田は聞いていた。

「ふん、どうするもこうするも警察に通報しとくわ。幸い、玄関カメラが顔をしっかり掴んでおる。ひっつかまえて、骨の髄まで弁償させるわ」

 老婆は、口の中にある食物をしっかり租借して飲み込めば、はっきりと返す。

「え、ここカメラあるんですか?」

「玄関口にな。万が一遭難しても、顔が割れれば捜査はしやすいじゃろうて。そのためのカメラじゃよ。安心せい。部屋には一つもないわ」

 鮎川の不安をほぐすように老婆は言う。

 玄関口にカメラがあるならば、他にカメラがあると邪推するが、一宿一飯の恩義と老婆の人柄に誰も追求はしなかった。

「ほれほれ、お前らさっきから箸が止まっておるぞ。後のことはわたしがやっておくから、お前らは食い終わったら下山準備をするこった。あ、片づけはしっかりしとくように。発つ鳥痕を濁さずじゃよ」

 部屋の惨状に誰一人気づかなかったことが心残りになる。

 なるが、それはこの家の問題であって、後は家主が片づけるべき問題だと背中を押してくる。

「誰も彼も山登りで疲れてぐっすりじゃったんじゃろう。熟睡してると案外、気づかぬもんよ。あ、ちなみにわたしも飲み過ぎたせいでぐっすりじゃったわ」

「ボトル一本まるまる空にしてましたからね」

 昨晩の出来事を思い出すように青川は語る。

 むしろ、ボトルを空にしておきながら、二日酔いもなく、誰よりも先に起きては朝食を元気に頬張る老婆の姿に驚嘆していた。

「それでも気になりますし、また山に来る機会があれば、顔を見にきますよ」

 親切心から紘真は言ったのだが、豚汁を飲み干した老婆は鼻を鳴らして言った。

「はぁん、こんな老いぼれなど探さんで、とっとと山を降りるこった」

 聞き方によっては暴言にも聞こえるが、しっかりと避難者を受け入れてくれる老婆の優しい性格を踏まえれば、暴言には聞こえない。

 つまりは『後のことは心配せず家に帰りなさい』と翻訳できる。

「まあ、家についたら、ついたと連絡はしてくれるとありがたいのう」

 老婆は素面の口調だが、目線は誰からも意図的に逸らしている。

 素直じゃないなと誰もが思おうと、老婆の心の温かさにあえて口にしない。

 口にしたのはおにぎりと豚汁であった。


(結局、あそこには寄れなかったな)

 町へと続く山道を下りながら紘真は振り返り、山を見上げる。

 キャンプ場が目的地なのは嘘ではない。

 そこを拠点として、キャンプ場から少し登った先にある慰霊碑に訪れるのが、今回の目的であった。

(あれから一〇年、あの事故から一〇年だよ。再び来るのに一〇年はかかった)

 無意識が紘真の右手が左腕を服の上から掴ませる。

 クマに襲われ、追われた身。祖父がいなければ、あの子共々クマの糧となっていた。

 例え同伴者がいようと、再び足を踏み入れるのに勇気が必要だった。

 関係者だからこそ、慰霊祭に訪れたくとも、この山を前にした途端、あの時の恐怖を思い出し足が震えた。汗が止まらなくなった。嘔吐だってした。

 また襲われたら、また失われたらと刻まれた心の傷は深く、この山に踏み入れるまで一〇年の歳月を有してしまう。

(おじさん、おばさん、あなたたちから託された子供は元気です。ですから、ゆっくりと眠っていてください)

 紘真は慰霊碑の方角に向けて、深々と頭を下げる。

 自己満足だが、今の紘真にできる目一杯の行動だった。

「嘉賀くん、どうしたの?」

「いえ、なんでもありません。今行きます」

 青川が列から離れているのに気づき、声をかけてきた。

 元気よく返して皆がいる列に戻ろうとした時、パキリと茂みの奥から枝の折れる音がした。

 この音は、はっきりと他の者にも届いたようで、大学生グループの行動は早かった。

 誰もがリュックの中からクマ撃退スプレーを取り出している。

 だが、誰も紘真に駆け寄らない。

 音源がクマであるならば、動いたものを獲物と認識して襲ってくるからだ。

 助けに動けば襲われる。

 紘真もわかっているからこそ、この場から動かない。

 目線を人ではなく、音がした茂みに離さない。離せない。緊張が押し寄せ、喉を急激に乾かせる。

 過去の事件がフラッシュバックし、瞳孔を揺らす。

「あっ、あっあああああああっ!」

 茂みから飛びできたのは一人の女性だった。

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