第29話 一寸ームチュウー

 ひらひらと眼前で舞っている。

 白いなにかが舞っている。

 紘真の頬を稲穂のような先端がくすぐり、目覚めを誘発する。

「うっ、うううっ」

 左腕から走る痛みに紘真は呻く。

 覚醒蝕む疼痛を気合いで抑え込んだ紘真は、目を覚ます。

「こ、ここは?」

 気づけば枯れ葉積もった山肌に身体を横たえていた。

 すぐ側には陽川や柊が倒れ、軽トラックが車体をバンパーから垂直に刺さる形で山肌に埋まっている。

「生きて、る?」

 紘真は枯れ葉まみれの身体に驚くしかない。

 相応の高所から落下したはずが、骨折どころか打ち身すらない。

 恐らくだが、降り積もった枯れ葉が天然のクッションになったのだろう。

「ひ、陽川さん! 柊さん!」

 我に返った紘真はすぐさま二人に駆け寄った。

 二人とも枯れ葉まみれであるのを除けば、外傷らしい外傷は見あたらない。

「くっ、ここは?」

「なんだったのよ、もう」

 紘真と同じように骨折はないようで安堵した。

「霧鷹山の中、だとしかいえません」

 不可視の糸で軽トラックごと山中に引きずり込まれた。

 もしからくりに気づかぬままであったなら、今頃、糸の元凶により命を終えていた可能性が高い。

「GPSは、使えないか」

「無理ですよ。霧のせいで、ここら辺は電波が届かないんです。ですから、役に立ちません」

 どうやら陽川には登山経験があまりないようだ。

 警視庁所属だから、活動メインは都心なのだろう。

「そうね、まずは、嘉賀くん、顔を拭いた方がいいわよ」

 柊は言うなり、ポケットからコンパクトを取り出せば、内蔵された手鏡で紘真の顔を映す。

 見れば左頬にはチョークのような白い粉が付着していた。

「うえ、なんだこれ、落ちた時についたのか?」

 慌てて服の袖で紘真は拭い落とす。慌てて落としたため、砂なのか、花粉なのか、確かめる暇はなかった。

「どうするの?」

 柊は男二人に尋ねながら垂直となった軽トラックをそのまま斜面に向けて、押し倒していた。

 まっすぐ突き刺さっていたのだ。前か後ろ、どちらかにほんの少し力を加えるだけで、後は勝手に倒れてくれる。

 音を立てて倒れる軽トラック。四輪のスプリングが車体を数回反動ではねさせる。そのまま柊は、右足を蹴り上げては運転側の窓ガラスを割っていた。

 瞬間、鳴り響く、防犯アラート。

「何を、して」

 警察官の前で堂々とした車上荒らしに陽川は絶句する。

 柊はアラートを止めてから車内を漁りだした。

「何って使えるものを探すのよ。荷物はそろって駐車場に置き去り。水なり食べ物なり見つけとかないと、下山すらできないわよ」

 強かな人だなと紘真は感心する。

 いや元々、女一人で登山に向かうような人なのだ。

 それぐらいの度胸がなければ山一つ登れない。

「あら、ついてるわね」

 車の持ち主は登山を前提として準備していたのか、中には登山道具一式や飲食物が積まれていた。

 何より地獄で仏だったのは、地図と登山用GPSだ。

 登山用GPSは基地局を介してではなく人工衛星を介して位置情報を取得する。

 特にこの霧で前後不覚に陥りやすい中、現在地を把握できる機器は命を繋げることができる。

 後は、スリングショット、ゴムの反発で弾を飛ばすY字型の狩猟用器具。

 イノシシやクマ相手には頼りない威力だが、カモやガンなど鳥類には高い効果を発揮する。

「使えそうだな、これ」

「しかし」

 スリングショットを持った紘真に、警察である陽川が苦い顔をするのは当然だろう。

「火薬を使う銃は許可書がいりますけど、スリングショットはゴムだから、許可書はいりませんよ? 自由猟での場合ですけど」

 祖父が狩猟免許を持っていた故に、ある程度の知識を紘真は持っていた。

 自由猟とは、鳥獣保護法に定められた条件を満たせば、狩猟免許がなくとも行うことができる狩猟のことを指す。

 道具の種類、区域、期間、動物の種類があり、スリングショットは、法定猟法、危険猟法、禁止猟法のどれにも当てはまらない、法定猟法以外の猟法による鳥獣の捕獲、自由猟法に該当する。

 スリングショットがゴムを使用する仕様上、猟銃と比較して威力や連射性が低いのもあり、銃でも刃でもないため銃刀法の規制も受けない。

 当然だが、丸い弾を飛ばすのは合法でも、先端鋭利な鏃のような物体を飛ばすのは違法となる。

 加えて公共の場で正当なく持ち歩くのは犯罪行為だ。

「わ、わかりました。緊急避難になりますし」

「まあクマには豆鉄砲ですけどね」

 八mmの金属球がケースに入っている。ずっしりとした金属特有の重み。ショットガンに使う散弾と同じだろうと、一度に撃てるのは一発のみ。小鳥相手に効果あろうとクマの巨体には文字通り豆鉄砲だ。

「えっと現在地は、嘘、でしょ」

 軽トラックのフロントガラスを机代わりにして地図を広げた柊は、作動させたGPSで現在地を知り、驚愕する。

 緯度と経度で現在位置を示すGPSだが、現在地は、登山口から三キロ離れた山中であった。

「じゃあなんですか、あの糸は三キロ以上先から、我々を車ごと拘束して引きずり込んだと?」

「じゃあじゃなくて現実なんだと思います。いや下手すると三キロ以上先からかもしれません」

 非常識で非科学的だと笑い飛ばしたいが、今立つ現状が現実を伝えてくる。

「陽川さん、敢えて聞きますけど、拳銃は持っていますか?」

「え、ええ、五島が銃を所持している可能性がありますから」

「この山、イノシシどころかクマ出ますから、万が一はお願いします」

「えっ?」

 役割を振られるなり陽川は顔を青くする。

「いやいや、拳銃でクマを撃てと?」

「威嚇にはなります。スリングショットよりはマシです」

 陽川の困惑もわかる。

 警察官が所持する拳銃は、あくまで人間用。

 鎮圧のために使用するものであって害獣に使用するものではない。

 文字通り豆鉄砲で効果は希薄、ましてや携帯に優れた分、命中率は低く、撃てば当たるものでもないからだ。

「ないよりマシでしょう。よし、ここから西に進めば、おばあさんの山小屋にたどり着けるわ」

「下手に降りるより、連絡取れる可能性の高い場所を目指すのが妥当でしょうね」

「さ、四キロ、だと」

 山に慣れた者と慣れぬ者の発言であった。

 縦移動ではなく横移動なので普通の登山より楽なのだが、経験の差なのだろう。

(警察官って捜査の時、足であれこれ動くって聞いたけど、この人は歩かないのかな?)

 あの若さで警部補なのだから、キャリア組なのだろう。

 だから、足の移動よりも車での移動が多いからだと紘真は自己完結させた。

「っ! 伏せて!」

 耳鳴りがするなり紘真は声潜めて叫ぶ。

 そのまま降り積もった落ち葉に埋もれる形で身を潜めた。

 二人もまた顔を見合わせるも、紘真に続く。

「落ち葉に身を潜める必要性なんて」

「静かにして」

 困惑する陽川に柊は言い含める。

 耳鳴りと身体の重さが増す。

(なにかが、近づいてる)

 この感覚は、事件が起こる前、緊急避難小屋で体験した本田とクマの対峙に感じたもの。

 ひしひしと霧の奥より放たれる射抜くような殺気。

 あの時は、猟銃構えた本田と猟犬のクロベエがいたから去ったようだが、今は状況が違う。

 酷くなりつつある耳鳴りが突とうに止む。軽トラックの屋根に何か乗る音がする。クマではないと本能が恐怖する。足音がしなかった。クマ特有の重量級の巨躯を動かす四肢の音がしなかった。仮にクマなら隠れていても匂いですぐに居場所を露見させられる。だが顔を上げない。顔をあげれば目が合ってしまう。

 耳鳴りが遠くなる。そして消えたのを合図に三人は埋もれていた落ち葉から顔を出していた。

「行ったようで」

「頭がおかしくなりそうだ」

「そうね」

 各自、髪や衣服に張り付いた落ち葉を払いのける。

 警戒は怠らず、ただ軽トラックの屋根に刻まれた一対の痕跡に声を失うしかない。

「靴の跡」

 スタンプでも押したかのように、一対の靴跡が自動車の屋根に刻まれている。

「どうやって登ったんだ」

 警察としての目が、靴跡一つの異常性を見抜く。

 屋根など高所に登ろうならば、必ずや登るための支点が必要となる。梯子をかけるなり、足や手をかけるなりしなければ登れない。そのまま屋根に登るとなれば、高所から飛び降りればいいが、着地音があり、落下速度と自重が合わさり天井にへこみができる。

 だが、着地音はなく、この自動車の屋根には、へこみがない。

「背中に羽でも生えていたというのか」

「笑えないわよ、こんな状況でそれ」

 狼狽する陽川に、柊は苦言を呈する。

 既に不可視の糸で自動車ごと縛り付けられ、三キロ先の山中に引きずり込まれた身。

 驚くことが一つや二つ増えただけだ。

「いちいち驚いたら進むものも進まないわ」

 異常事態だろうと、柊にブレはない。内心では恋人の青川が心配のはずだが、強かときた。

「青川さん、柊さんのそんなところにホレたのかね」

 ついつい紘真はつぶやいてしまった。いやいや強い女はかっこいいと言ったものだ。

「ほら、ぶつぶつ言ってないで、持った持った!」

 柊は紘真にリュックを押しつけてくる。腕にズシッと来る重さ、中を確認すれば中身は食料や飲料水のようだ。妥当な役割分担だと抗議しない。誰よりも膂力のありそうな陽川だが、山には不慣れ、場合によっては害獣相手をしてもらう必要がありデッドウェイトになりかねない。柊がナビゲーターを行うならば、山に慣れている紘真が荷物を持つのは妥当だった。

「まずはおばあさんの山小屋まで。そこから外部に連絡を取る」

 紘真は今一度、目的を口出し確認する。行方不明者を探索しようにも、警察一人に一般人二人、荷が勝ちすぎているからこそ、下手に動くのは下策。外部と連絡を取り、異常事態を伝える。信頼できるかできぬかは別問題だが、現職の警察がいるので話は通りやすい、はずだ。

「行きましょう」

 眼前に広がるのは、進行妨げるように広がる濃い霧。

 一寸先は闇、というが、進行に黒も白も関係ない。

 同じように立ち並ぶ木々も相まって、下手に進めば前後不覚の遭難に陥ってしまう。

 紘真は汐香の無事を祈りながら、深き霧へと一歩足を進めた。

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