第12話 寄生ーヤマイー
老婆は、赤らめた顔から上機嫌な声を出しながら話を続けた。
「一方で<てふしろ様>は蚕蛾を敬い、丁寧に扱う者には慈愛を与えたと聞いておる。家族のように蚕蛾の面倒を見てきた女が病で床に伏した際、霧の晩に現れれば、その白き触覚で病を身体から取り除いた。落ちてきた岩石で蚕蛾が潰されかけた際、村一番の貧弱男が身を挺した時、その岩石を砕いた。また、村一番の知恵なし故に村から追い出された子供が水たまりで溺れる幼虫を助けた際、<てふしろ様>から蛹を食べさせられ、知恵者になったとある。一方で蚕蛾を巡って村同士が争った際には、鱗粉で諍いを鎮めたともあるのう。鱗粉を浴びた者は全身を痙攣させて争えなくなったそうじゃ」
「アメとムチ?」
「今で言えばそうなるのう。それだけじゃのうて、<てふしろ様>は人に化ける能力があり、わたしたち人間が蚕蛾を粗末に扱っておらぬか、常々見張っておるそうじゃ。あ、もちろん、どれもこれもわたしが子供の頃に聞いた話じゃよ?」
念の押しようであるが、この手の伝承は戒めのために語り継がれるもの。
もし本当に実在するならば、昆虫学では世紀の大発見だ。
「蚕蛾といえば、あやつ、最近みないのう。連絡してもまったく出らんし」
グラスの中身を三度空にした老婆が、思い出すように語り出した。
新たな液体をグラスに注いだことで、ボトルはついに空となる。
「あやつ?」
「昔なじみの男じゃよ。蚕蛾の品種改良に人生賭けとる奴じゃ。今思うとあれは惜しかったのう」
この山の反対に位置する場所に居を構えている男の話だった。
「坊主、お前さん、蚕蛾がどれくらい桑の葉を必要として、どれくらいの生糸がとれるか知っておるか?」
当然のこと、紘真は知らないと首を横に振るう。
ライス並盛りが、何束の稲で成り立っているのか知らないのと同じだ。
参考までに、稲一株には約二〇の穂がついており、一つの穂には七〇ほどの籾がついている。
茶碗一杯分に換算すれば、約二、一株となる。
「昔基準になるが、蚕の繭からとれる生糸は一匹で一五〇メートル、着物一着分の蚕を育てるのに、およ一〇〇キログラムの桑の葉が必要となる。蚕は重さで取り引きされるからのう。一〇〇キログラムの繭を作るのに六〇〇〇頭の蚕、桑は年間で二トン。当然、餌となる桑を手に入れるためには、広い桑の畑が一〇反必要になる」
反が単位であるとわかった紘真だが、単位の規模がわからないため、青川に目線で助けを求めた。
(そうだね、例えるなら学校の体育館二つ分の土地かな)
ご丁寧にわかりやすい例えでイメージがついた。
何故、養蚕が都会ではなく地方の村々で行われていたのか。
蚕を育てる施設だけでなく、飼料である桑を育てる広い土地が欠かせない。
この山に桑の木が多い理由に合点が行った。
「そやつはのう、長くて太い生糸が出せるよう蚕蛾の改良に心血を注いでおったんじゃ。そしたら五〇年前かのう。病気や寄生虫に強いチワワぐらいの蚕蛾を作るのに成功しおったわ」
紘真は青川カップルと顔を驚きのあまり見合わせてしまう。
酔っていたカップルも話を聞くなり、酔いが覚めた顔だ。
「人差し指より大きい蚕のチワワサイズ?」
想像しただけで、かなりの大きさとなる。
人によっては怪獣の幼体と勘違いして悲鳴をあげそうだ。
「うんぬ、その蚕蛾は倍の一五〇〇メートルの長くて太い糸を出すときた」
「でも、そんな蚕蛾がいるなんて聞いたことありませんよ?」
青川から当然の疑問が口から出た。
「確かに品種改良には成功した。じゃがのう。大きすぎたのが成功故の失敗じゃったんじゃよ」
誰もが老婆の発言の意味に勘づくのに間など必要なかった。
「餌ですね」
「そうじゃ小僧。通常の蚕蛾でも大量の桑の葉を必要とする。それが大きい蚕蛾に桑の葉を与えるならば、何十倍は必要になる。加えて生糸を取ろうにも、長い太いと元来の設備じゃ合わない。ただでさえ蚕蛾の管理には手間暇がかかる。それだけじゃのうて桑の葉とて品質を管理せなあかん。余計負担が増えるなら、今まで通りで行こうと頓挫したんじゃよ。とどめとなったのは、その蚕蛾が生んだ幼虫がウジバエにやられたことじゃ」
「寄生虫ですか?」
紘真の疑問に答えたのは青川だった。
「うん、カイコウジバエ。ヤドリバエの一種で文字通り蚕蛾に寄生するハエなんだけど、このハエはね、桑の葉に卵を植え付けるんだ。桑の葉に黒い小さなツブツブがあるんだけど、それがウジバエの卵でね。卵がついた葉を介して蚕蛾の体内に入る。消化管の中で孵化して体腔に潜り込む。成長した幼虫は、蚕蛾が蛹化すると孔を開けて脱出、成虫となるまで地中に潜むんだ。その繭には黒い孔ができて中の蛹は死んでいる。この状態を
「ない、ですね」
紘真は即答だった。繭は一本の糸で形成されている。糸口を見つけ、一束の生糸とする。もし孔を内側から開けられようならば、一本の糸は断たれ、黒い孔のせいで商品価値はなくなっている。
「うん、ないね。ウジバエにやられた蚕蛾は、気門の周りが黒ずんでいるからすぐわかる。あ、気門ってわかる? 鼻のない虫が呼吸するのに使う身体の各所にある穴のことだよ」
わかるので無言で頷き返す紘真。
小さい頃、虫は鼻がないのにどうやって呼吸するのか、祖父の書斎にあった図鑑で調べた記憶があった。
「ですけど、僕個人にはそのサイズの蚕蛾には興味ありますよ」
流石、昆虫学者、青川は知的好奇心を抑えきれずにいる。
「まあ興味があるなら、行ってみるといい。でかいのはもうおらんが、研究資料ぐらいあるだろうに。ただ先にも言うたが、ここ最近は連絡が取れとらん。便りがないのは元気な印というがのう」
老婆は、小さな氷しか残っていないグラスを呷れば、そのままガリガリと氷をかみ砕いている。
腰や目どころか歯ですら健康のようだ。
「さてと、酒もなくなったし。お開きかのう」
老婆は誰の助けも借りず、一人でソファーから立ち上がる。
「お前さんらも、イチャコラしとらんで寝るように。明日には降りるんだ。体力はしっかり回復しときな」
酔っていようと老婆の口調と足取りははっきりしていた。
時間的に〇時を過ぎている。
いささか会話を楽しみすぎたようだ。
お開きにするには妥当だと、紘真たちもまたソファーから立ち上がる。
「それじゃおやすみなさい」
山での挨拶を欠かさぬ者は、眠りの挨拶も欠かさない。
「ん?」
当てがわられた部屋の扉を開けようとした紘真だが、一瞬だけ、霧のような白きモヤが視界に走り、開けるのを止める。
「寝ぼけてんのか?」
瞼をこするもモヤなどない。
暗がりの廊下が続くだけだ。
眠気が起こした錯覚だと、改めドアを開くのであった。
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